表紙

ノクターン 4


 夜の十時にワインの匂いをさせて、瑞希がそっとドアから入っ ても、亮子は別に苦情は言わなかった。 女友達と久しぶりに盛り 上がったと想像したらしい。
 秀一はまだ帰宅していなかった。  ありがたいと瑞希は思った。 この不思議な夜の余韻を、ひとり、 ベッドの中で噛みしめてみたかったのだ。

 パジャマに着替えた後、瑞希は バッグから、4つに折ったプログラムを取り出した。 その端の白い ところに、求が自分の住所を走り 書きしたのだ。
 彼が先に電話番号を教えてくれたので、瑞希も教 えないわけにはいかなくなった。 そして、住所を渡されたからには、 自宅マンションの名前ぐらいはやはり伝えないわけには・・・
  四位さん、と日記の後ろに書き込みながら、なんとなく瑞希は後ろ めたかった。
 翌日、瑞希は近くの図書館に行って、四位求について調べた。
  出身大学は、音楽の英才教育で有名なT校で、デュッセルドルフと ウィーンに留学し、K校の助教授をしている。 作曲のほうでも有 名で、いくつか賞を獲得していた。
 大変なエリートだ、と溜息が出た。  この派手な経歴と、あの美貌のわりには、四位求には気取りがない が、とても同じ世界の、同年代の人間とは思えなかった。 彼はま だ若く、27歳にしかなっていなかったのだ。

資料を読み終わった後、瑞希はなんとなく疲れて元気を失った。  友だちだって? とんでもない! 気軽に付き合えるような相手じゃ ない。
  彼だって、あの夜の雰囲気でああ言っただけで、今ではもう瑞希の ことなど、あらかた忘れているだろう。
  大人のおとぎ話のような一夜だったと、思い出にするのが賢明な道 だ、と瑞希は自分に言い聞かせた。

  意表を突くのが四位求の性格らしかった。 四日ほど経った曇り の日、郵便受けに一通の招待状が入っていた。
  渋谷の公園の野外劇場で、土曜日の午後にチャリティコンサートを 開くという。 印刷した案内状の余白に、バランスのいいきれいな 字で、 『ぜひ来てください』と書き加えてあった。
  生演奏をまた聴いてみたい・・・瑞希の心が動いた。 明るい昼間 の気取らないコンサートという点も気楽だった。
  瑞希はその招待状を亮子に見せ、再び堂々とスリーピースに着替え て出かけた。

 演奏会は、予想以上に楽しかった。  子供連れの聴衆が多く、演目は、肩の凝らないルロイ・アンダーソン やグローフェなど、アメリカの作曲家による小品で構成されていて、 ユーモラスで飽きなかった。
 瑞希は大勢の客と一緒に笑い、手 を叩き、眼を輝かせて聞き入った。 楽団員たちも、いつもの正式な服 ではなく、チェックの上着やシャツなどを無造作に着て、家庭的な 雰囲気をかもし出していた。 指揮者の四位求も、ギンガムのシャ ツに紺色の上着で、燕尾服のときより若く見え、クラシックという よりポピュラーの人気タレントのように格好よかった。
 そのためか、演奏終了後の騒ぎは半端ではなかった。 何人ものフ ァン、特に女性がサインを求めて駆け寄り、四位求がいくら書いて も書いても果てしなく続いた。
 端の席に腰を下ろしていた瑞希は そんな求の姿から目をそらして、ゆっくり立ち上がった。
  演奏以外にもチャリティの商品はいろいろある。 求のサインもそ のひとつだ。 瑞希は風船のたくさんついた洒落た屋台を見つけて、 ピアノをかたどったキーホルダーを買うことにした。
「ありがとうございます。 二千八百円になります」
  瑞希が緑色の小さな財布を出して、金額を揃えようとしていると、不 意に横から手が出た。
「はい、三千円」
  声に聞き覚えがあった。 見上げる前に、もう瑞希には誰か わかっていた。
 目が合うと、求は微笑んだ。
「僕に買わせて」
「でも、それは・・・」
  抗議しようとする瑞希を、求はや んわりと押して屋台から遠ざけた。
「友だち、友だち。 これぐらいプレゼントさせて」
  周りの一目が気になって、瑞希は落ち着かなかった。
「サインはもういいんですか?」
 「ビデオの早回しみたいに書きま くってきたから、大丈夫」
 そう言いながら、彼は瑞希と肩を 並べて歩いている。 また彼のペースに巻き込まれそうで、瑞希は 内心あせった。
「いいコンサート。 子供客が多くても全然手抜きしないで、立派 に演奏して」
「子供の耳はこわいって、高校の恩師がよく言ってた。 なめてか かると必ずしっぺ返しが来る、でも真面目に相手になればきっと将 来いい演奏家かいい聴衆になるって」
  それから不意に、彼は瑞希の眼をまっすぐに見た。
「初めて見たなあ。 あなたが心から嬉しそうに笑ってるところ」
  瑞希の視線が宙をさまよった。 求は言葉を選びながら続けた。
「最初は暗くて、なんというか、影が薄かった。 あの風船みたい に、手を離したら飛んでいってしまいそうだった」
  それで放っておけないのか・・・瑞希は初めて、彼の気持ちがいく らかわかった気がした。
「音楽は私にとっては薬なのかも」
「そうらしいね」
 求はますます嬉しそうになった。
「僕の専門だから、ほっとした気がする」

 とうとう求は、駅の前まで瑞希を送ってきた。
「今日はいろいろありがとう」
「じゃ、また」
  求が再び手を差し出したので、瑞希はそっと握った。 すると求は もう片方の手も延ばして、さっと瑞希の体を抱いた。
  風のような、一瞬の接触だった。 すぐに彼は腕を離し、にこっとし て言った。
「元気出して」
  そして、手を挙げて挨拶すると、急がずに歩み去っていった。

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