表紙

ノクターン 12




 求さん……!

  彼の眼のうつろな鈍い光に、瑞希は金縛りになった。 求のこんな表情は、これまで見たことかなかった。 まるでうつけたような、感情のない顔……生来の美しささえ、ぼやけて目立たないものに見えた。
「どうした?」
  不意に夫に問いかけられて、瑞希は我に返り、急いで求に背を向けた。
「なんでもない」
  ヒューッという風切り音を発して、電車が駅に入ってきた。


 瑞希は落ち着きを失った。 求の変わり果てた姿が、幽鬼のように心につきまとう。 その晩よく眠れなかった瑞希は、翌日さっそく本屋に行って、最新の音楽雑誌を片っぱしからめくり、四位求の情報を得ようとした。
  成果はすぐに出た。 めくったクラシック関係の雑誌すべてに載っていた。 若手人気指揮者の四位求は病魔に襲われ、耳が聞こえなくなったと。
  耳が聞こえない――愕然として、瑞希は雑誌を手からすべり落とした。 そんな残酷な話があるだろうか。 音楽家にとって耳は命だ。 何を奪われるよりも、聴覚がきかなくなることのほうが恐ろしいはずだ。
  口に手を当てて、瑞希は本屋をさまよい出た。 しばらくは何一つ考えられなかった。 ただやたらに体が震えた。
  しかし、自宅のあるマンションが見えてきたとき、瑞希の足がぴたりと止まった。 胸の中に炎が生まれ、みるみるうちに手に負えない大きさに成長した。
  ( 彼は、私に助けを求めた。 ホームで私を見たときの眼は、少しも驚いていなかった。 会いに来たからだ。 この私に……! )

  恋がかなうかもしれない、と初めて瑞希は思った。 聴覚を失い、音楽から閉め出された今、私の存在が彼の心の中に、これまでは考えられなかった居場所を作り出せるかもしれない。 行こう。 行かなくちゃ!
  瑞希はやみくもに歩き出した。

 静岡の、海が見える丘の上に、求の家はあった。 両親や姉と暮らした家だが、現在、親は他界し、ピアニストの姉はイタリア人と結婚してヨーロッパに住んでいた。 しかも求は、雑誌によれば誰も近寄らせず、たった一人でその家に住んでいるという。 同情されるのが耐え難いのだろう。 想像しただけで、瑞希の心は痛んだ。

  家はすぐに見つかった。 しかし、入るのは大変な勇気が要った。 ベルを鳴らしても意味がない。 瑞希は庭に回って、ガラス戸から中をのぞいた。 電気をつけていないので薄暗く、始めは留守なのかと思ったが、やがて眼が慣れると、蓋をあけたピアノの前にうずくまっているのが見えた。
  瑞希の胸が一杯になった。 作曲しようとしていたのだろうか。 だが、弾いても彼には聞こえない。 脳裏に、記憶している音がこだまするだけだ。
  ガラス戸をそっとあけて、瑞希はフローリングの広い部屋に入り、求の背後に立った。 それから思い切って、手を肩に置いた。 求はびくっとして振り向いた。
  ふたりの眼が合った。 求は初め、信じられないように見つめていたが、やがて低い濁った声で言った。
「どうしてここへ?」
  瑞希は答えようしとして止めた。 求は長年の習慣で普通にしゃべれる。 だがもう彼女の声を聞くことはできないのだ。 瑞希はとっさに携帯電話に素早く打ち込んで、求に示した。
『あなたのそばにいたいから』
  求は顔をうつむけて、その字をしばらく見つめていた。 それから顔を上げて言った。
「ありがとう」
  単調な声だった。

 3日が過ぎた。 瑞希にはすることがたくさんあった。 買い物、食事の支度、洗濯……掃除は求がやった。 できることは何でも自分でしようとする。 助かるが、半面瑞希は寂しかった。 求が頼ろうとしないから。
  以前の親しみは、もうなかった。 求は瑞希が来たことで明るくなるどころか、日に日に暗さを増して口数が減った。 いくらか邪険にもなった。 瑞希がそばに寄ろうとすると、両手で押しやったりする。 瑞希は途方にくれ、悩んだ。

  4日目に、距離感は頂点に達した。 まるで触れてくれない求にやりきれなくなって、瑞希は彼の前に座り、腕を取って胸に顔を埋めようとした。 そのとたん、求はすっくと立ち上がって窓辺に行った。
  窓枠に寄りかかって、無表情に海を眺めている横顔を見ながら、瑞希は悟った。 この家に来た初日にもう、ぼんやりと感じ取っていたことを。 彼女はまちがっていた。 おそらくあの日、2人は偶然のいたずらで同時刻にあの駅にいたのだ。 彼は瑞希を求めてなんかいなかった。
  深い惨めさが襲ってきた。 袋小路から一気に断崖に出た気分だった。 黙って家出してきた瑞希には、帰る場所がない。 求に拒否されて、すべてを失ってしまった。

  いや、すべてじゃない――かすかな声がささやいた。 子供がいる。 初めて本当の恋をした人の子供が。
  瑞希はゆっくりと、鉛のように重い体の向きを変えた。 そして、わずかな身の回り品をまとめるために、奥の部屋に行った。

  テーブルの上に残したメモには、たった2行、
  『かえって迷惑のようだから帰ります。 早くよくなってください。   瑞希』 
と書いた。 それから持ち物をまとめ、ハイヤーを呼んだ。 行きは期待に弾んで歩いてきたが、駅までの長い道のりをまた歩いて戻る気力は、今の瑞希にはなかった。

  10分ほどで車が来た。
  最後に、どうしてもやりたいことが1つだけあった。 瑞希は居間に引き返して、まだ海を見つめ続けている求の真後ろに行った。
「別れる前だったら受け入れてくれた? もうそんなこと言ってもしかたがないけど」
  聞こえないことを承知で、瑞希は求の背中に話しかけた。 聞こえないからこそ、言えることがあった。
「あなたが好き。 愛してます。 好きになったこと、後悔しない。 でもあなたに私を押しつける気持ちはないわ。 だから帰る。
  元気でね。 耳が治ることを祈っています」
  泣いちゃいけない、と瑞希は自分に言い聞かせた。 泣いたら後悔していることになってしまう。 なんとかがんばって乾いた眼のままで、瑞希は車に乗った。 すぐに走り出したタクシーから、振り返ることは一度もなかった。


 あれから一ヶ月、われながらよく頑張った、と、小さなアパートの壁にかかるカレンダーを見ながら、瑞希は思った。 昼はビル掃除、夜はフランス語とイタリア語の翻訳の下請け。 文字通り、爪に火をともすように節約して、わずかだが貯金していた。 これからは金の亡者と言われようと、貯めに貯めなければならない。 子育てがどのくらい費用がかかるものか、試算してみて瑞希は身の引きしまる思いだった。
  窓辺に吊るしてある篭から、やわらかい声でジュリーが挨拶した。 義母がお茶の集まりで外出している時間を狙って、瑞希は婚家に戻り、最小限の持ち物および自分名義の預金通帳、そして、大事なジュリー夫妻の篭を持ち出してきたのだ。 家を出るとき、瑞希は深々と一礼して、心の中で言った。
( さよなら。 裏切り者の私を許してください )

  つわりがひどくないのが救いだった。 母は強し、と言うじゃないか。 これからだって頑張れる、と瑞希は自分に言い聞かせた。
  それに、この世に独りぼっちというほど孤独ではない。 このアパートの保証人を引き受けてくれたのは、大学時代の友人で現在は出版社のキャリアになっている小西英見〔こにし ひでみ〕で、翻訳のアルバイトを紹介してくれた恩人でもあった。
  四位の家を出て連絡を取ったとき、英見の第一声は「馬鹿!」だった。
「ダンナに許してもらったのに家出して、彼氏にも振られて。 人生の計算がまったくできない奴なのね!」
  そう言いながら、英見は親身になって部屋を探し、当座の資金まで貸してくれた。 言い古されたことだが、まさに『持つべきものは友』だった。


  その日は掃除の仕事はなかった。 久しぶりの休みだ。 瑞希はくつろいで、日ごろご無沙汰の新聞を広げた。 言いたくはないが、古新聞だ。 新聞代も節約したいので、とっていない。 読もうとしている新聞は、昨日英見から届いた宅配便の箱の底に敷いてあったものだった。
  なめるように読んでいた瑞希の手が、びくっと芸能欄で止まった。 音楽のコーナーにこう書いてあったのだ。
『奇跡的に聴力が回復した、指揮者の四位求氏は、26日にいよいよ復活コンサートを開くことになった』
  瑞希は3度、その小さな記事を読み直した。 嬉しさと寂しさが同時に襲ってきた。 これで決定的に求は瑞希の手の届く範囲から去っていったのだ。
「おめでとう。 さよなら」
  小声でつぶやいて、瑞希は新聞を畳んだ。

 秀一が帰ると、待ちかねていたように亮子が現れて、仏頂面で封筒を突き出した。
「これ」
  受け取って、秀一はまず宛名を見た。 柳川瑞希様だ。 額の皺が深くなった。
  裏を引っくり返してみたが、差出人の名前はない。 彼の心を見透かしたように、亮子が言った。
「中を読んでごらん」
  手紙は開封してあった。
「母さん……」
「だって瑞希さんは勝手に家出したのよ。情報があったら知るのは権利よ」
と、亮子はうそぶいた。 仕方なく、秀一は封筒をのぞいて、中から折りたたまれた便箋ともう一枚、ぺらっとした紙切れを引き出した。
  紙切れの方はコンサートの入場券だった。
「Y交響楽団演奏会、四位求復活コンサート?」
  つぶやきながら、秀一は手紙に目を通した。
『すまない。 せっかく来てくれたのに、あの時はあんな態度しか取れなかった。 でも今は違う。 君のいない人生は考えられない。 二度目に会ったときにもう自分の気持ちはわかっていたが、君が家庭を大切にしているので、ずっと隠していた。 でも、もう駄目なんだ。
  チケットを同封するから、最後の5分でもいい。 来てほしい。 君を見たい。
                トム』
「何だろう、トムって。 外人と付き合ってたのかしら」
  亮子がぶつぶつ言った。 秀一はそっけなく返事した。
「仇名だろう」
  その手から券を取って、亮子は思い切りよくビリビリと破った。
「あっ」
「いいのよ。 一緒にコンサート行こうなんて、君を見たいだなんて、そんな格好つけ男、待ちぼうけになればいいのよ!」
  手紙を持ったまま部屋に行きながら、秀一はつぶやいた。
「そいつと一緒にいるわけじゃないのか。 じゃ瑞希はどこにいるんだろう」


 事故は26日に起こった。 たぶん意識しまいとしても、求のことが頭の隅にあったのだろう、瑞希は朝から何となくぼんやりしていた。
  ちょうど階段を器具で掃除していたとき、相棒があやまって掃除機を手からすべらせた。 ロボットのような形をした掃除機は、意志あるもののように階段を転がって、よけ切れなかった瑞希に衝突し、踊り場まで突き落としてしまった。
  すぐに救急車が呼ばれた。 連絡を受けた英見は、大慌てでタクシーに乗って駈けつけたが、その途中、考えた末に柳川秀一に連絡を取った。

 大きな拍手と歓声の中で、求は静かにアンコールを終えると、下手にさがった。 興奮ぎみのスタッフが次々に握手を求め、叫んだ。
「よかったですよ!」
「再起不能なんて書いた奴、出てこい!」
「<ケルン>に行って、みんなで全快祝いしましょう!」
  求は小さく微笑して手を横に振った。
「悪いけど、久しぶりに客の前に出て疲れました。 今日は休ませてください」
「わかりました。 来週の打ち合わせには元気で出てきてくださいね」
「はい。 今日はみんなありがとう」
  にぎやかに去っていく一同を少しの間見送ってから、求は燕尾服のポケットに手を入れて、うつむき加減に階段を下りた。 最後まで空席だったC−32席――その席のように、求の心も空っぽになっていた。
  不意に目前に人が立った。 求はいやいや立ち止まった。 ファンやマスコミに会わないですむように裏階段を使ったのに、と思いながら。

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