表紙

ノクターン 1


 典型的な花曇りだった。 淡い灰色の空と道が渾然と溶け合い、この世のものとは思えない雰囲気をかもしだしている。
 桜の 花びらがどこからともなく散る中、求はいい気持ちで、品のいい住宅街を通り抜けようとしていた。
  前に坂道が見えた。 それでいくらか神経を集中したのが幸いした。  幻のように横道からさまよい出てきた淡い影が、目の端にはっきりと捕らえられた。
  急ブレーキは間に合った、と求は思った。 ところが、つんのめってすぐ顔をあげると、人影は見え なくなっていた。
 ほんのちょっとの差で轢いてしまったんだろうか・・・背筋に冷たいものを覚えながら、 求はできるだけ急いでドアを押し開け、車の外に出た。
 道の真ん中、彼の車から1メートルは離れたところに、女が倒れていた。 衝撃は感じなかったが、やっぱりはねてしまったらしい。  暗い気持ちで、求は女に駆け寄った。
 膝をついて覗きこむと、左半身を 下にして横たわっていた女は、ゆっくりと肩を倒して首を動かし、目を開いた。
 ふたりの視線が、空中で交わった。  大丈夫ですか? という問いは喉に詰まった。 女は大きな瞳で、 まばたきもせずに求を見つめ、静かな声でささやいた。
「ごめんなさい」
  無意識に、求は首をかしげた。 聞き間違いかと思った。 しかし、女は彼の目の前でゆっくり体を起こし、何事もなかったように立ち上がった。
  つられて求も立った。 やっと声が出た。
「どこか痛いですか?」
「いいえ」
  相変わらず冷静に、彼女は答えた。
「ぶつかりませんでしたから」
  自分から車に飛び込んだんだ、と求は直感したが、口には出さないで、代わりに申し出た。
  「それでも気分が悪いでしょう。お宅まで送ります。 乗って下さい」
「いいえ、大丈夫です」
  小さく頭を下げて、女は歩き出した。 すみれ色のシャツにジーンズのごくありふれた服装なのに、後ろ姿ははかなげで、夕方の通りに、かげろうのように溶けていった。


「ただいま」
  小声で言って戸をあけると、子供の靴が玄関に脱ぎ散らされているのが目に入った。
  思わずため息が出た。  また真弓が来ている。 バスに乗れば15分足らずの距離なので、 始終実家であるここに入り浸っているのだ。
  案の定、居間に入ったとたんに賑やかな挨拶攻撃が飛び交った。
「おかえりなさい」
「おかえり、瑞希おばちゃん!」
  努力して、瑞希はふたりに微笑み返した。
「いらっしゃい」
  奥の棚の前で背伸びしていた姑の亮子が、振り向いて声をかけた。
「ねえ、瑞希さん、たしかここにクッキーの箱を入れてたはずなん だけど、あなた知らない?」
  それは、瑞希が大学時代の友人からヨーロッパ土産にもらったもの だった。
  亮子は、家族のもらい物をすべて自分のものだと思っているふしが ある。 去年、瑞希が夫から、誕生祝いに贈られたスカーフを、無 断でつけて外出したことがあった。
    ともかく今は疲れきっているので、たかがクッキーで波風を立てたく なかった。 瑞希は自分たちの寝室に入り、缶を持ってきて手渡し た。
  亮子は、口をとがらせて言った。
「そっちに持っていかなくてもいいでしょう。 みんなで食べるも のなんだから」
  姪の夏美は、さっそく缶の蓋を開けて、汚れた手で食べ始めた。  さすがに真弓はいくらか気を遣って、母をたしなめた。
「だってこれ、瑞希さんがもらったものでしょう。 持ってくの当 たり前よ。 ごめんなさいね、瑞希さん」
「気にしないで。 二人じゃ食べきれないから」
  社交辞令で言ったのに、亮子はそれみたことかと声をあげた。
「ね? 私の言ったとおりじゃない?」
  やりきれない・・・
  一刻も早く寝室に行って、ベッドに飛び込みたかった。 瑞希は誰 にともなく、
「ごゆっくり」
と挨拶して、廊下に出た。
  鈍い痛みが頭の芯をしびれさせていた。


 ベッドにうつ伏せに身を投げて目をつぶると、不意にひとつの顔 が脳裏に広がってきた。  鼻筋の通った、やや細面の顔。 形のいい唇と、何よりもくっきり した二重瞼の眼が印象的だった。
  今の若者は顔立ちが整っている人が多いが、その中でも、今日会っ たあの青年は飛び抜けていた。  心配そうに覗きこまれたとき、夢の続きではないかと錯覚したほど に。
「どこか痛いですか?」
  声も同時によみがえってきた。  顔にふさわしい上品な声。  むしろ声のほうが顔を引き立てていると言っていい、音楽的な 響きを持っていた。
  あの人でよかった。 柄の悪い男が車の窓から顔を突き出して、
「気をつけろ、ばかやろう!」
  と怒鳴って走り去ったりしたら、自己嫌悪はもっとひどかっただ ろうから。
  あのひとは気づいただろうか。
  瑞希は寝返りを打って、仰向けになった。
  たぶんわかっていただろう。  瑞希は自発的に飛び込みはしなかった。 ただまっすく歩いていっ ただけだったが、普通、人はそういうことはしない。 横から来る 車を、反射的に必ず見るものだ。
  でも彼は怒らなかった・・・ 瑞希はじっと、白い天井を見つめた。
  かすかに心が温まった。
  それから再び、瑞希は目を閉じた。  少し寝てもかまわないだろう。  どうせ秀一は今夜も遅いにきまっているのだから。


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