
ノクターン 2
翌日の午前10時、瑞希が買い物に出ようとすると、亮子が呼び止めた。
よく外出際の一番忙しいときに、用事を思い出すのだ。
「瑞希さん、クリーニング店に寄って、私のコート取ってきてちょうだい」
「わかりました」
答えながら、瑞希は靴を履いた。
そのとき、亮子がぽつんと言うのが聞こえた。
「そういえば今朝はジュリーが鳴かなかったみたいね。 えらく静
かだったから」
瑞希は、ぐっと胸を突かれた。 もう生きてこのマンションに戻っ
てこないと決めた昨日に、籠からセキセイインコのジュリーを放し
てやったのだ。
籠の鳥をいきなり外に出すのはひ
どいかもしれないが、周りに気を配らない姑と、毎晩『残業』の夫
に残していくほうが確実に残酷だった。 二人が悪気なしにジュリ
ーを飢え死にさせてしまう方に、瑞希は100万円賭けてもいいと
思った。
商店街からの帰り、瑞希は少し遠回りして、公園を通った。 広
々とした池を見れば、少しは気が晴れるかと思ったからだ。
考え込みながら、木の柵の横を回り込んだとき、ふと耳慣れた小鳥
の声を聞いた。
「ジュリー?」
夢中になって、瑞希は周囲を見回した。 柔らかい緑色した木立の
どこかに、かわいいジュリーが隠れているのだろうか。
「ジュリー!」
ピーピー ピーピー
かすかだった声が大きくなった。 急いで振り向いた瑞希は、そこに
思ってもみなかったものを見た。 楡の木に寄りかかった、すらりと
背の高い青年と、その手に、安心しきって止まっている、白いセキ
セイインコを。
この世のものとは思えなかった。 まるでペイネの絵のように、クリ
ーム色のセーター姿の青年と、真っ白な鳥は調和していた。
鳥を見守ってうつむいていた青年が顔をあげたとき、瑞希は思わず
声をあげそうになった。
彼も、瑞希を見て明らかに驚き、
かすかに眼を大きくした。
胸をわけもなく高鳴らせながら、
瑞希は小走りに近づいた。
「あの、その鳥、うちのなんです。
ジュリーといいます」
「ああ・・・」
彼はまず、小鳥に目をやり、それから瑞希を眺め、ジュリーが逃げ
ないようにそっと手を差し出した。 顔かたちに似合った、長くきれい
な指をしていた。
「どうぞ」
ジュリーはすぐ、慣れ親しんだ瑞希の手に移り、安心して小さくさ
えずった。 そして、瑞希が顔を近づけると、いつものように嘴で
軽く唇に触れてきた。
その様子をじっと見ながら、青年
は尋ねた。
「昨日は大丈夫でした?」
どきまぎして、瑞希は小さく答えた。
「ええ、すみませんでした」
「色が白いんですね。 昨日見た
ときは、顔色が悪いのかと思ったんだけど」
瑞希はあいまいに微笑した。
青年は考え深そうに小鳥を見た。
「よく鳴くからオスですよね」
瑞希がうなずくと、彼は思いがけ
ない提案をした。
「1羽だけで寂しいから逃げるんじ
ゃないかな。 メスを飼ったら喜んで籠におさまるかもしれません
よ」
本当はわざと逃がしたのだけれど、青年の提案は、瑞希の意表をつい
た。 自分が孤独なだけに、彼の言葉は心の底まで染み入った。
「そうですね。 帰りに買っていきます」
「丈夫なのを選んであげますよ。前に飼ってたから、よく知ってる
んです」
ごく自然に、青年は瑞希と並んで
歩き出した。
その日の夕方は、目が覚めるほど美しかった。
墨を流したような空の下に、真っ赤な雲の帯が手
のひらの形に残って、その上に星がかすかにまたたいている。
いくら見ても見飽きない。 寝室のベランダから乗り出すよう
にして、瑞希は夕焼けに見とれていた。
あの幻のような青年は、瑞希に小鳥を買ってくれただけでなく、明
日を生きる勇気をくれた。 ペットショップの前で別れるとき、ふ
と思い出したようにポケットから券を出して、瑞希に渡した。
「これ、売れ残りなんだけど、行ってみませんか。 気分転換にな
りますよ」
その券を、瑞希はそっとポケット
から出して広げてみた。 残照はすでに消えかけていて、字が見え
にくかったが、それでも、『Yオーケストラ定期演奏会・S
ホール・\8000 4月27日』は読み取れた。
Sホールか・・・
音響効果が抜群だというその演奏
会場に、瑞希はまだ行ったことがなかった。 結婚してからは、ク
ラシックのコンサートには一度も出向いたことがない。
大学2年まではよく行った。 安い席を探して、ピアノ、バイオリ
ン、声楽、オペラも見た。
今でも、夫が戻らない長い夜、テ
レビで演奏に熱中することがある。 結婚当初は、禁断症状のように、
ときどき無性に大音量でCDが聞きたくなった。 最近ではあまり
なくなったが。
あの青年は、軽い気持ちで誘った
のだろうが、この券は、瑞希にはたまらない誘惑だった。
27日は木曜日だ。 なんとかして行こう、と、瑞希は固く決心した。
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