
ノクターン 6
エレベーターから出たところで、瑞希は財布を落としたことに気づ
いた。
いつ、どこで手からすべり落ちたのか、まったく覚えがない。 大
金が入っているわけではないが、銀行のカードと、それから求の住
所をメモし直した紙が入れてあったので、瑞希は落ち着きをなくし
た。
これから探しに戻ろうか・・・だが、夜中の11時近くに、暗い道
を探し歩いても、見つかる可能性は低かった。 ひとつ溜め息をつ
いて、瑞希は重い足取りで開放廊下を歩いた。
財布をなくしたことで、酒を買って帰らなかった口実ができたこと
も確かだった。 しかし、瑞希が玄関を入ると、既に客たちは騒ぎ
終わって帰路についたことが判明した。
「瑞希さん、こんな遅くまで、どこをほっつき歩いてたの? 心配で、
交番に問い合わせようなんて話してたのよ」
低い声で、瑞希は財布の紛失を告げた。 それだけで、姑は自動的
に、瑞希が夜道を今まで探し回っていたものと解釈して、やさしく
なった。
「まあまあ、気をつけなくちゃね。誰か拾ってくれるといいけど、あ
てにはできないわね。
疲れたでしょう。 後片づけは明
日にして、もう寝なさい」
自分が代わりにやってくれるとは
言わない。 それでも瑞希はほっとして、おやすみなさいと挨拶し
た。
部屋へ帰ると、夫はもうぐっすりと寝込んでいて、かすかないびき
が聞こえた。
2日後、瑞希に宅配便が届いた。
4年前に父を失って以来、荷物に
縁のなかった瑞希は、首をかしげながら受け取った。
宛名の字を見たとき、胸がぴくんと不規則に鳴った。
すっきりとした、優雅な、見覚えのあるこの字・・・
瑞希はあわてて寝室に入り、窓辺で丁寧に包装を解いた。
中身は、あの夜落とした財布だった。 その他に、ドビュッシーな
どのフランス印象派の曲を網羅したY響のアルバムが入っていて、
手紙が添えてあった。
『街灯の横に落ちていたので、お返しします。 同封のCDは、去
年出して評判の良かったものです。 瑞希さんがフランス音楽をお好き
かどうかわからないけど、気が向いたら聞いてください。
また連絡をください。
待っています。 求 』
瑞希は、求の横顔がモノクロで美しく印刷されているCDをぼんや
り眺めた。 胸は千々に乱れていた。
嵐の日に舞う落ち葉のように、求への心の借りがどんどん積み重な
っていく。
CDには、『若き巨匠』と打ってあった。 四位求は、ジェームズ
・レヴァインやサイモン・ラトルのように、二十代で
すでに大家の片鱗を見せつつあるのだ。
それなのに、求には気取りも傲慢さもなかった。 どういう育ち方
をしたのだろうと不思議になるぐらいに。
瑞希はつくづく思った。 本当に
四位求は、幻のような人だ。
椅子に、崩れるように座り込むと、瑞希は顔を覆った。 四位求に、これ以上深入りしたくなかっ
た。
あのひとは、自分の魅力をいったいどう思っているのだろう。 瑞希
は腹だたしささえ感じてしまう。
いくら無自覚でも、あんなにサインを求められているのだ。 もて
るということはわかっているはずだ。 世の中が開放的になってき
ているとはいえ、なんで人の妻に、それも地味で暗い女なんかに興味
を示すのだ。
四位求、あんたは悪趣味だ!
Y響のリハーサルがD劇場であるのを調べて、瑞希は重い足取り
で出かけていった。
腕には、駅前の楽器店で買った楽譜挟みが抱
かれている。 一方的に親切にされるばかりではしめしがつかない。
どうしてもお返しがしたかったが、誤解されるのはもっと嫌だ。
だから服装は地味にした。 ただのファンだと強調するために、小
さな花束まで持参した。
大理石の広い階段を上って、ガラスのドアから入っていくと、楽器
の音の入り混じったかすかな響きが聞こえてきた。
瑞希は邪魔にならないように、そっとホールの扉を開き、柱の陰に体
を隠すようにして、リハーサルが一段落するのを待った。
団員たちは、思い思いのラフな格好でパイプ椅子に座っていた。
求は客席に背を向けて、高めの回転椅子に座り、団員と細かい部分
の打ち合わせをしていた。
やがて話がまとまったらしい。
彼は楽譜にかがみこみながら指揮棒を取り上げ、さっと一振りした。
とたんに、なだらかなハーモニーが劇場にあふれた。 瑞希は柱に
寄りかかり、目を閉じて聞き入った。 初めて聞くメロディーだが、どこか東洋ふうな繊細な美しさに満ち
て、心に染み込んできた。
曲は短く、5分足らずで終わった。
満足すべき出来栄えだったらしい。 求がうれしそうに何か言うと、団
員の間から拍手が起こった。
それから彼らが三々五々立ち上が
ったので、休憩に入ったようだと瑞希にもわかった。
遠慮がちに柱の陰から出て、瑞希は通路の階段を下り始めた。
楽譜を積み重ねていた求は、ふと振り向いて瑞希を認めたとたん、
舞台を駆け下りて速足で近づいてきた。
客席のちょうど真ん中あたりで、ふたりは出会った。 瑞希は少し
離れたところで止まり、楽団員が見ているといけないので、まず花
束をそっと渡した。
「いただいたCD、もう4回聴いたわ。 お財布もわざわざ送って
くれて……」
涼しい色の花束をちらっと見てから、求は顔を上げた。
「社交辞令はよそう。 時間がもったいないよ。 来てくれて、す
ごくうれしい。 30分休みがあるから、何か飲みに行こう」
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