
ノクターン 7
また舞台に戻って、指揮台の横に花束を置くと、求は素早く帰っ
てきて瑞希の腕を取った。
壁一面がガラス張りの明るい喫茶室で、ふたりはコーヒーを飲んだ。
瑞希が渡した楽譜挟みを、求は喜んでくれた。
「大事にするよ」
「そんなに高いものじゃないの。 正直に言うと、あの落とした財布
に入っていた三千円で買ったの」
求は笑った。 それから不意に真面目になった。
「来週から三週間、オーストラリアに演奏旅行に行くんだ」
瑞希はどきっとした。 寂しいような、ほっとするような
複雑な心境だった。
求は眼を上げて、窓の外を眺めて
いた瑞希の横顔に据えた。
「金曜日にまた会えないかな。
今日、携帯を忘れてきちゃったんで、君の写真を撮りたいんだ。
お守りに持っていきたい」
どういう意味だろう・・・
瑞希は、分かりきっていることを認めまいとして、コーヒーカップ
に視線を落とした。
求は誘っている。 仄めかしているのだ。 ふたりで冒険に乗り出
そうと。 結婚という社会制度は、求にとって何ほどの拘束力も持ち
合わせていないようだった。
彼が返事を待っているので、しかたなく瑞希は低く答えた。
「最近よく出歩くので、いい顔されてないの。 たぶんだめだと思
う」
「来てほしい」
珍しく、求は押し強く言った。
「4時にあの公園の、楡の木のそばにあるベンチで待ってる」
約束をしたつもりはなかった。 だが、金曜日になると、瑞希は朝
から落ち着きを失った。
午後になると、胸騒ぎは不安に近
くなった。 行けばすぐには帰れない。 確実に家庭に波風を立て
ることになるだろう。
でも、行かなければ、もう四位求には会えない・・・
逡巡しているうちに、4時半になってしまった。 もう手後れだと思
うと度胸が据わって、心臓の動悸は収まった。
代わりに、どんよりとした落ち込みが襲ってきた。 ひびの入った
結婚生活の、唯一のオアシスが消えていく。 ただの蜃気楼にすぎ
なくても、求との絆を断ち切られるのは、瑞希にはひどく辛かった。
その日は、5月にしては暑いぐらいの一日だった。 そのせいか、
5時を過ぎると急に空が暗くなって、大粒の雨が降りはじめた。
瑞希がぼんやり外を見ていると、亮子が不意に、ノックもせずに入っ
てきて、せきたてた。
「俊一から電話があって、6時には駅に着くから傘持って迎えに来
てほしいって」
妻の携帯電話じゃなく、居間の家庭用電話にかけるとは、どういう
ことなんだ、と瑞希は首をかしげた。 ひょっとすると母親に頼み
たかったのだろうか。 それにしても……
ネコのように濡れるのが嫌いな姑が駅なんかに行くはずはなく、結
局瑞希は傘を2つ持って、外に出た。
篠つく雨の中を急いで歩いていた瑞希は、橋のところでがくんと
立ち止まった。
人影の消えた橋の真ん中に、一人の青年が立っている。 傘もレイン
コートもなく、川に落ちたようにずぶ濡れで、白い上着が体に張り
付いていた。
求さん…!
いったん止まった瑞希の足が、勢いよく走り出した。 土砂降りの
音が激しくて、瑞希がすぐ傍に来るまで求は気づかずに、雨が細い
槍のように落ちてくる鼠色の空を見上げていた。
ほとんどぶつかりそうになって、瑞希は危うく立ち止まった。
求はゆっくり首を曲げて、彼女を見た。
少しの間、求は無言で瑞希を見つめ続けていた。 瑞希は傘をさし
かけるかどうか迷った。 こんなにずぶ濡れになった人に、今更傘
が必要だろうか。
それにしても、待ち合わせ場所でもないこんなところで、なぜ求は
雨に打たれていたのだろう。 やはり芸術家は変わったところが
ある、と、瑞希は初めて思った。
「どうしたの?」
雨に負けないように、瑞希は大声を張り上げた。
求は言葉では答えなかった。 不意に瑞希の肩に手をかけ、引き寄
せて唇を重ねた。
傘が地面に落ちた。
息が続かなくなるまで口づけしているうちに、瑞希もぐっしょりと
雨で濡れてしまった。
ようやく顔が離れると、求は我に返って、瑞希の体を気遣った。
「ごめん…… びしょびしょにしちゃったね」
かすれ声で、瑞希は言った。
「近くのホテルに行って、乾かしましょう」
Nという、小規模だが上品なホテルに、瑞希は求を連れていった。
彼が堂々と本名でチェックインしたので、瑞希ははらはらした。
明らかに求は、遊び人ではないらしい。 それが瑞希にはうれしか
った。
204号室に入ると、すぐ求は瑞希をバスルームに押し込んだ。
「風邪を引いたら大変だから」
自分こそ骨までぐしょ濡れなのに、
と瑞希は心配したが、求の力は意外に強く、あっさり閉め込まれて
しまった。
ふたりともシャワーを浴びたところで、係りに服のクリーニングを
頼んだ。
仕上がるまでの時間にすることは、普通ひとつだ。 しかし、ふたり
はどちらも固くなっていて、少し離れて無言で立っていた。
緊張に耐えられなくなった瑞希は雨の様子を見ようとして窓に近づ
いた。 相当大きな雨雲だったらしく、まだ真っ暗な空から荒々し
く降り注いでいる。 当分やみそうになかった。
瑞希は横の窓枠に頭をもたせかけた。 前のガラスに白い影が映り、ゆっ
くりと近づいてきた。
次いで瑞希はあたたかい両腕に包まれ、目を閉じた。
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