表紙

ノクターン 8


 7時に、瑞希はホテルを出た。
  どうしてもと言って、求はふたりが出会った橋まで送ってきた。  ようやく雨は止み、流れる雲の間 から青白い月が見え隠れしていた。
 ふたりは手をつないで歩いた。  顔見知りの人に見られる可能性があったが、もう瑞希は気にしなか った。 賽 (さい) は投げられたのだ。
  橋のたもとで、ふたりは一旦立ち止まった。 求は瑞希を抱いて、髪に頬ずりした。
「もう離れたくない」
  そうできるものなら、と瑞希も思った。 だが口には出さず、代わ りにできるだけ普通の口調で言った。
「明日はオーストラリアね。  日本が春だから、向こうは秋ね。 どっちもいい季節だわ」
「明日の午前9時に電話するから」
 求がせきこんで言った。
「オーストラリアで宿泊するホテルの電話番号を知らせるよ。 だ から一度でいいからコレクトコールで君からも電話してくれ。 声 が聞きたいんだ」
  明日の9時に私はどこにいるだろう、と瑞希は思った。 傘を持っ たままどこかへ消え、いつまで待っても迎えに来なかった妻を、夫は どう迎えるだろう。


 マンションに着いたときは、7時20分を回っていた。
  冷静に、瑞希は玄関を開けた。 とたんに亮子の大声が耳に飛び込 んできた。
「瑞希さん! 秀一はとっくに帰ってきてるわよ! ずぶぬれで!  いったいどこでどうして……」
「いいよ、もう。 瑞希だっていろいろ用事はあるよ」
  居間からのっそり出てきた秀一が母を遮った。 思いがけず庇われて、 瑞希は夫の顔を見上げた。
 彼の視線は瑞希にはなく、たしな める様子で母にそそがれていた。
「気にするな。 晩飯まだだろう? 一文字屋で寿司買ってきたんだ。  みんなで食べよう」
「秀一!」
「母さんがみがみ言いすぎ。 のんびり長生きしようぜ」
「でもね……」
  ははは、と屈託なく笑って、秀一は居間の椅子にどっかり腰を下ろ した。
  煎茶を入れながら、瑞希は拍子抜けした気分だった。 相当な修羅 場を覚悟して帰ってきたのだから。

    その夜、後片付けを終えて瑞希が寝室に入ると、パジャマに着替 えてベッドに座っていた秀一が顔を上げた。 そして、何となく優 しい口調で話しかけた。
「わかってるよ。 急に迎えに行けなんて言うほうが無理だよな。  毎晩午前様だもんな」
  黙ったまま、瑞希は夫を見返した。
 その表情が油断なく見えたのだろう。  秀一はちょっと首を振った。
「子供、子供って言われるのに、 いいかげん疲れてさ」
  それは私のほうだ、と瑞希は思った。
  そう声に出して言われたように、秀一は相槌を打った。
「そうだ。 おまえのほうが辛いと思うよ。 母さんは悪い人間じゃ ないが、しつっこいところが昔からあるから。 どうしてあんなに 内孫を欲しがるかな。 真弓にちゃんと娘がいるし、もう一人でき かけてるってのにな」


  結婚2年目から、産婦人科へ相談に行くのは瑞希一人だった。 秀 一は、ガンとして病院行きを断りつづけた。 昔気質の亮子も息子の 肩を持った。
「瑞希さんには悪いところはない? それじゃ相性が悪いんでしょうよ。  息子は男よ。 れっきとした男が検査なんて、とんでもない!」
  というわけだった。
 
  わけもなく足を持ち上げて、スリッパの先を動かしながら、秀一は 言った。
「母さんの言うことなんか聞き流しなよ。 よっぽど我慢できなか ったら俺に言えよ。 昼間に暇なときなんか、好きなことをしてて いいんだぜ。 友だち付き合いもあるだろうし、趣味に走ったって 遠慮することないんだ」
  サイドテーブルに置いてあったCDを、秀一は手に取って眺めた。
「ドビュッシーか…… コンサートによく行ったよな、独身時代は。
  俺がよく居眠りするんで、おまえ、むっとしてさ」
  瑞希は寒気がするのを感じながら、 夫の掴んでいるCDを見つめた。 しかし、秀一は別に何かを感じた様子はな く、すぐにまたサイドテーブルに戻した。


 翌日の9時、ジュリーとフィービの文鳥夫婦の世話をしていた瑞希は、 ぴったり時間通りの電話を、胸の振動で感じ取った。
  前置きも何もなく、求の声が耳に飛び込んできた。
「今日の午後4時20分の便で出発する。 無理かもしれないけど、 もし送りに来てくれたらうれしい」
 ぱっと燃え上がって、はかなく消える藁 の火・・・ 瑞希は心の中でそう呟いた。 だが、口に出しては静かな低い声 で答えた。
「はい、行きます」
 そっと電話を握りしめる手が、か すかに震えた。

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