
ノクターン 9
空港のエスカレーター横で、瑞希は求が懸命に辺りを見回しているの
を見つけることかできた。
瑞希の姿を視野に入れると、求の
顔に光のような微笑が広がった。 大股で瑞希に近づきながら、求は
呼びかけた。
「来てくれたんだね」
瑞希は無理に口元を動かして、微笑みに近いものを作り出した。
その手をすくいあげ、求は両手で握りしめた。
「もうみんなは乗っちゃったんだ。 時間が少なくて…… 話したいこと
がいくらもあるのに」
「電話するわ。 朝がいいのね」
求はうなずき、ぎゅっと瑞希を抱きしめた後、慌しくエスカレー
ターに飛び乗った。
不思議な3週間だった。 朝の15分から30分を、毎日瑞
希は電話タイムに当てた。
話の内容は、異国の景色だったり、
バスの乗客の面白い逸話だったりで、直接恋を語ることは遂に一度もな
かった。
たわいのない話で心を和ませながら、瑞希は思った。 こんな時間が永久に
続くといいのに、と。
しかし、時は着々と過ぎていき、6月が来た。 3日にはオーケス
トラが帰国する。 求がその日を心待ちにしているのを、瑞希は何
度も聞かされていた。
到着は夜の8時14分だという。
普通の主婦が、どうやってその時間に抜け出せるというのだろう。
結局、瑞希は初めて完全な嘘をついた。 オーストラリアへ観光旅行
に行った友達を迎えに行くと偽って6時半に家を出た。
行き先はごまかさないほうが、見とがめられる機会が少なくてすむ。
電車を乗り継いで成田に向かいながら、瑞希の心は沈んでいた。
飛行機は、霧のために30分以上遅れた。 しかも、やっと降りて
きたと思ったら、タラップの不調で更に15分以上待たされた。
それやこれやで、9時を回ってから、疲れきった乗客がようやくご
ちゃごちゃと、通路に現れた。
瑞希は、出迎えの人たちの背後に
隠れるように、ロビーの片隅に佇んでいた。
大きな楽器の箱(たぶんコントラバスだろう)を抱え、もう片方の
手で荷物のカートを不器用そうに押してきた髭の外国人が、瑞希の
腕にぶつかった。 少し飛び出した青い眼が瑞希に向けられ、大きな
体に似合わない甲高い声が言った。
「Excusez moi.(失礼)」
反射的に瑞希は答えた。
「Enchanté(いいえ)」
外国人の表情が変わった。 そして、いきなり早口でまくした
て始めた。
「O, vous pouvez parler Français! C'est le premier fois au Japon pour
moi. Si vous viendra avec moi pour……」
(え、フランス語話せるんですか。
僕にとっちゃ日本で初めてですよ。 もしよかったら僕と……)
ほうっておくと、どこまでしゃべるかわからない。 瑞希はきっぱ
りと遮った。
「Je n'peut pas. J'attendre ici mon ami」
(それはできません。
ここで友だちと会うんです)」
あきらめずにまだ説得しようとし
て開けた口が、そのまま止まった。 外国人の視線が自分の背後に向け
られているのを見て、瑞希は振り向いた。
そこには、ジーンズに青い上着姿の求が立っていた。
バス奏者はにこりとした。
「Cette madame est votre femme?(この人は奥さん?)」
「Mon ange(僕の天使)」
短く答えると、求は瑞希の手を取
って歩き出した。
「フランス語うまいね」
瑞希は面映ゆかった。
「父の仕事の関係で、4年ほどス
イスにいたの」
「帰国子女か」
「まあ……そうね」
「君のこと、僕は何も知らないな」
寂しそうな声だった。
瑞希はこれまで意識的に、自分に
ついて話さないようにしていた。 御伽噺に現実は要らないから。
気を取り直して、求は明るく言った。
「ずいぶん待たせちゃったね。
もう10時近くだ。 ごはん食べた? まだなら一緒に食べよう」
終電で、瑞希は下北沢駅まで戻ってきた。 同じ電車に乗ってきた
求は、ドアが開いたとき、突然瑞希の腕を掴んで引き止めた。
「帰らないで」
そっとその手を外して、瑞希は答えた。
「明日電話します」
もうバスはない。 タクシー乗り場にはサラリーマン、ウーマン達
が列を成している。 歩いて帰ることにして、瑞希は速足で駅の階
段を駆け下りた。
公園のそばまで来たとき、背の高い男の姿が目に入った。 まさか、と
思って行き過ぎようとすると、その大きな影も瑞希を認めて急いで
近寄ってきた。
「おう!」
秀一だった。 唖然として、瑞希は立ち止まった。
「秀一さん、どうしたの?」
「迎えに来たんだよ。 あんまり
遅いからさ」
どういうことなんだろう・・・落ち着かない気分で、それでもど
こかうれしくて、瑞希は夫と肩を並べて家路についた。
秀一は、なぜ遅くなったんだとは全然訊かなかった。
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