
ノクターン 10
夏になった。 例年以上に暑い日が一週間も続いた。 瑞希は求と連絡を取ってはいたが、成田へ迎えに行った夜以来、直接会ってはいなかった。
会えないことが男の炎をかきたてることはよくわかっていた。 しかし、真弓の出産や姑の亮子が開いたお茶の会などが重なり、外出するどころではなかった。
やっといくらか手が空いたのは、お盆も近い十四日だった。 秀一が名古屋へ泊まりがけの出張に行き、亮子が珍しく瑞希の労をねぎらって、鬼のいぬ間の洗濯をしてきたら、と言ってくれたので、瑞希は言い訳なしに堂々と外出した。
ただし、心は堂々とはほど遠かった。 瑞希がたびたび外出するようになってから、秀一は日に日にやさしくなった。 怒ったり問いただしたりは一切しない。 それどころか、亮子の小言をたしなめて、むしろ妻の味方についている感じだ。 この夫の豹変ぶりに、瑞希は良心が痛んでいた。
それでも、自由になったとたんに瑞希の手は電話に伸びてしまう。 番号を選ぶ手はかすかにふるえていた。
「今日いちにち空いてる? ほんと?」
はっきり響いてくる求の声は、異様なほどはずんでいた。 かえって電話した瑞希のほうがしりごみするほどに。
「あの、でも、忙しいんでしょう?」
「少しだけ。 でもキャンセルする」
「えっ? それは……」
すぐに明るい声がかぶって、瑞希は言葉を止めた。
「友達に伊豆の別荘借りてるんだ。 行く?」
「伊豆?」
「うん。 海のすぐそば。 いいところだよ」
行けばどういうことになるかぐらい、瑞希にわからないはずはなかった。 それでも行く気になったのは、やはり会いたい気持ちがマグマのように胸の底に積みかさなっていたとしか思えない。 気がつく前にもう、返事していた。
別荘の白い建物は、下田の外れにぽつんと建っていた。 遠くから見ると、茶色の崖に貼りついたマッシュルームのように見える。 求が車の屋根を開いたので、海を渡ってくる風が瑞希の髪を炎のように吹き上げた。
「よかった、晴れてて」
歯並びのいい口元で、求は微笑しながら大声で言った。 瑞希も大きくうなずき、両手を大きく上に伸ばした。 驚くほど心が広がっている。 こんなに開放的な気持ちになったのは、子供のとき以来だった。
「海は好き」
独り言でぼそっとつぶやいたのを、求は聞き逃さなかった。
「僕は?」
嫌いならついてこないでしょう、と心では言ってみたが、口には出せなかった。
「山も好き」
「だから僕は?」
どうしても言わせたいらしい。 瑞希は笑顔で目を閉じた。
「鼻は好き。まっすぐで」
「ほかには?」
「そうね、手も好き。 指が長くて」
「それだけ?」
ほんとは丸ごと好きだけど、わざと言った。
「他にあったかな?」
「あれ」
求は口をとがらせた。
「もっとやさしくしてよ」
「しょっちゅう言われてるでしょう? かっこいい指揮者とか、若手のホープとか」
「あれは宣伝文句。 君のその声で、大好き、とかって言われてみたい」
言って照れている。 横顔が赤かった。 瑞希は黙って彼の腕に手をかけた。 指の下で、しっかりした筋肉が動くのが感じ取れた。
別荘についたのが、ちょうど昼頃だった。 淡く光の射しこむ居間で、小さな丸いテーブルにバッグを置き、振り向こうとしたとき、抱きしめられた。
シャワーを浴びて近くのレストランに向かったとき、時計は2時を回っていた。 太陽の照り返しで白っぽくなった道を、ふたりは肩を並べて歩いた。 暑いのに、自然と手をつないでしまう。 汗ばんだ手のひらが、むしろ心地よかった。
木陰に童話の一ページのようなレストランが見えてきたとき、瑞希は立ち止まった。 すぐに求も足を止め、心配そうに問いかけた。
「もう帰らなきゃいけないの?」
「ううん」
緊張で、瑞希の頬はこわばっていた。 でも口が勝手に動いた。
「彼は……秀一さんは、3日間出張してるの」
瑞希の手が、突然痛いほど握りしめられた。
「今日だけじゃないんだ!」
「でも、お義母さんが……」
「なんとか考えよう」
子供のように、求はせがんだ。
「ここにいよう。 ね? 僕も言い訳考えるよ。 仕事しないですむように。 君の分も考える。 だから、帰らないで」
坂を転がり落ちているのか、それとも光に向かって進んでいるのか、瑞希にはもうわからなかった。 恋をするってこういうものなんだ、というのはようやく実感できた。 理性なんて吹き飛んでしまうのだ。 この恋愛中毒から抜け出ることはできるのか。 すべてを失って初めてわかるのかもしれない、と、瑞希は半ばあきらめていた。
ふたりはほとんど別荘の周囲から出なかった。 ゆったりした服を着て、日中はほとんどすべて、海岸を歩いたり砂浜に座りこんだりしていた。
鳥の声、雲の流れ、砂が自然に描く模様――普通の若者には退屈でしかたがないようなものが、ふたりには語り尽くせない会話の元になった。 わずか3日。 正確に言えば2日半しかない短い休暇。 その間に瑞希は、求となら退屈しないでいつまでも過ごせることを知った。
この人と私は感性が似ている――そう悟って、瑞希は体がふるえるほどうれしく、また悲しかった。
ふわりと浮いているような3日間は、またたく間に過ぎた。 求はどうしても家まで送ると言い張ったが、瑞希は固く断った。 破滅するなら一人がいい。 彼を巻き込みたくなかった。
案の定、マンションでは亮子が瑞希の帰りを待ちかねていた。 ドアを開いたとたんに姑があわただしく顔を突き出したので、瑞希は門前払いを覚悟した。
しかし、亮子の口から出た言葉は、想像外のものだった。
「ああ、よかった。 やっと帰ってきてくれたのね。 お茶の仲間で長野へ行く話が急にきまったのよ。 だからあなたに留守番頼まないといけなくなって」
棒を飲んだように、瑞希は立ち尽くしていた。
少しして、やっと間抜けな声が出た。
「あの……すみません。 黙ってよそに泊まって」
「いいのよ。 言い忘れたんでしょう? 秀一が言ってたわよ、泊りがけで洋子さんの家に行くはずだったって」
洋子というのは、瑞希のたった一人の親戚の名前だった。 たしか今は日本にいないはずだ。
秀一が自分のアリバイつくりをしてくれたと知って、思わず瑞希はドアに寄りかかってしまった。
ひとりの夜が来た。 そばに誰もいない夜。 手が自然に電話に伸びる。 こんなことでいいんだろうかという良心の声は、沸きあがる情熱に押しつぶされてしまった。
予定が詰まっていたようなのに、瑞希の電話が入ると、求はすぐにキャンセルして、池袋にミュージカルを見に行こうと誘った。 なぜ手に入りにくい入場券を持っていたのか、大いに疑問だったが、瑞希はあえて訊かなかった。
期待通り、舞台は盛り上がった。 ふたりはメインテーマを口ずさみながら劇場を出てきた。
「ああいう華やかな曲を作ってみたいと思う?」
「趣味じゃないけど、君が作れというなら作るよ」
不意に瑞希は鼓動が速まるのを感じた。 この素敵な人から何かをもらいたいと思ったことはない。 共にいるだけで充分幸せだった。 でも、もし思い出を形にできるとすれば…… 瑞希は遠慮がちに言った。
「あのね、譜面一枚くらいの小さな曲でいいから、私に書いてくれる?」
沈黙が二人の間に落ちた。 妙に気詰まりな間合いに、瑞希はあせった。
「いやならいいのよ」
「いやじゃない」
気を取り直したように求は言い、安心させようと笑顔を作った。
「そういうことじゃないんだ。 かわいい曲がいい? それともうんとロマンティックな曲?」
「海を思わせる曲がいいな」
瑞希は小声で答えた。
ふたりはJホテルで夕食を取り、そのまま彼の部屋に上がっていった。 求の自宅は静岡にあるので、仕事が続くときにはいつもJに宿泊することにしているのだ。
部屋に入ると、上着を脱いでエアコンのスイッチをいれるとすぐに、求はピアノの前に座って曲を作り始めた。 歩きながらアイデアをまとめていたらしい。 瑞希は彼の好きなハイボールを作って、そばの椅子に座った。
即興の女神が微笑んだのだろう。 求は15分もたたないうちに精妙な響きの小品を仕上げてしまい、ピアノで弾いて録音してから、手書きの楽譜を瑞希に渡した。 小品といっても楽譜3枚はある立派な作品だった。
瑞希は感動してその楽譜に見入った。
「ありがとう」
「君だけの曲」
求はあらたまって言った。
「発表しないから、完全に君だけのものだよ」
彼は録音したMDもコピーしてつけてくれた。 そのとき、思いついたようにもう一枚CDを出してきた。
「今度出たんだ。 聞いてほしい」
瑞希はカバーを見た。 『フライング』という表題が斜めに走っていた。
家に帰ってから、瑞希は一人きりの部屋でそのCDを聞いた。 オーケストラの音がふわっとスピーカーから流れ出したとたん、あっと思った。 以前、リハーサルを聞いたときに演奏していた曲だったのだ。 美しい中に不思議な響きを持つメロディーで、アジア的なのに賛美歌に似た雰囲気があった。
別れるときに、求がぽつんと言ったことが大きく心に迫ってきた。
「あのさ、この曲、君を思って作ったんだ。 だからもう、君の曲は作ってた」
出張から戻ってきた秀一の上着には、かすかに香水の匂いが残っていた。 前にもあったことだ。 しかし瑞希は責める気にはなれなかった。 その資格もない。 黙ってクリーニングに出しながら、思った。
(夫婦どちらにも愛人がいて、夜の生活が半年以上途絶えていて、お互いわかっているのに口に出さない。 奇妙な平和が続いている。 こんな家庭って他にあるんだろうか……)
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