「いや」
その言葉は反射的に田坂の口から飛び出した。
しまった! と思った。 本気だったから、なおさら狼狽した。 つまり彼が言いたかったのは、今夜のような晴佳は嫌いだ、ということだったのだ。
それなのに、後が続かなかった。 きっぱりとした否定が空中にいつまでも浮いていて、どちらも声にならなかった。
結局、先に沈黙を破ったのはまたも晴佳だった。 すっと立ち上がり、窓に近づきながら淡々と言った。
「失礼なの。 でも正直だから、許す」
ベッドに半身を起こして、田坂は無意識にぎゅっとシーツを掴んだ。 一番傷つけたくない人を最悪の形で傷つけてしまったという自覚が、どっと胸に来た。
「あの……」
「帰ろ」
晴佳が陽気な高い声を上げて遮った。
「今度は私が先。 おとなしく待ってなさい」
そして、ガウンをひらひらさせながらバスルームに消えた。
晴佳は運転が上手だった。 決断力があって気が強いから当然かもしれない。 今度は助手席に乗ったが、田坂は身の置き所がない思いだった。
途中、晴佳は一回だけ口をきいた。 まったく普通の口調で、気分を害している様子はなかった。
「ええと、五反野だったわね」
「うん、そう」
こっちを見てくれないか? ちらっとだけでいいから――田坂は後悔で一杯になりながら願った。 眼が合ったら、頭を下げてあやまれる。 玉砕してもいい。 本当の気持ちを口にできる。
晴佳は大きな眼を前方に据え、しっかり運転していた。 無心な表情で、他に何の関心事もない様子だった。
何もできずに時は過ぎた。 自宅近くの交差点で止まったとき、田坂はもう耐えられずに申し出てしまった。
「ここでいいよ。 ありがとう」
「そう」
鞄を胸に寄せて降りようとして、田坂は最後の勇気をかき集めた。
「あの、電話番号教えてもらえるかな」
かな、というところに自信の無さがにじみ出た。 晴佳はバッグを開き、中から名刺を引き抜いて渡してきた。
急いで、田坂も名刺を出した。 まるでサラリーマンの名刺交換のような形になった。
田坂が降りる前に信号は青に変わり、後ろからホーンを鳴らされた。 晴佳は気にも止めない態度で悠々と車を出した。 ダークグリーンの車体があっという間に車の列に飲み込まれるのを、田坂は半ば放心状態で見送った。
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