廊下の外れで音がしたようだったので、幸世〔ゆきよ〕はシニアグラスを外し、木目込みの材料を机に置いて、立ち上がった。
ここは鎌倉で、海が近い。 静かな夜にすべての音楽を消し、庭先にたたずんでいると、波の音が響いてくるところだ。 家が築七十年の日本家屋で、しかも横に広いので、幸世は防犯に神経質になっていた。
片手に金属の三十センチ物差しを握って、幸世がそっと廊下を回ると、裏口でブーツを脱いでいた姉娘が顔を上げた。
「晴佳!」
「ただいま」
幸世はほっと息をついた。
「脅かさないでよ。 泥棒さんかと思っちゃった」
「チャイムで起こしたくなかったから」
「あら? 玄関の鍵どうしたの?」
「忘れた。 たまたまこっちの鍵がバッグに入ってて」
「今日は帰ってくる予定なかったものね」
晴佳はうなずき、ブーツを下駄箱に入れて上がってきた。 廊下の天井についた照明が暗いせいか、顔に影が差して見えた。
いそいそと前を歩きながら、母の幸世はせわしなく尋ねた。
「もう十時過ぎだけど、何か食べる? たしか『小路屋』さんのタルトが残ってるはずよ」
「ううん、いい」
「そう?」
できれば一緒にお茶菓子を食べたいと思った幸世は、少しがっかりした。
「お兄さんは?」
「まだ病院。 最近ずっと帰りが遅くてね。 体が心配なぐらい」
晴佳はうなずき、畳に座って脚を横に流した。
「やっぱりいいわ、和室は。 落ち着く」
「じゃ、もっとしょっちゅう帰ってきてよ」
かすかな軋り音と共に声がした。 晴佳と幸世は同時に振り返った。
広い廊下を車椅子が進んできていた。 乗っているのは、髪を肩に垂らして日本人形のように見える朱里〔あかり〕だった。
晴佳はすっと立ち上がり、妹に手を貸して車椅子から下ろすと、座敷に座らせた。
「起こしちゃった? 悪い」
「いいよ、もちろん」
朱里は笑った。 透き通るように色が白い。 こうやって素顔を見せていると、むしろ青いぐらいだった。
「ちょっと冷えてきたわね。 晴佳、障子閉めて。 暖房入れて、三人でお話しましょう」
「はい」
結局タルトが温められて、ダージリンティーと共に三人のお腹に納まった。 一番よく話したのは晴佳だった。 自分や友達の失敗談、昨日見た劇の批評、運転中に目にした奇妙な光景など。 眠ったような旧家の中で、晴佳は新しい風だった。 いきいきした今の世間を母と妹に届ける、メッセンジャーだった。
楽しい集いは半時間ほどでお開きになった。 晴佳は目ざとく、朱里の疲れた表情に気付いて、さりげなく母の話にストップをかけた。
「後は明日ね。 くたびれたわ、私」
「まだ早いのに」
幸世は残念そうだったが、晴佳はさっさと朱里を車椅子に乗せ、低く口笛を吹きながら廊下を押していった。
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