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あおのロンド 75


 朱里が息を引き取ったのは、一週間前の、ちょうどこの時刻だった。
 予告された死――まだ平均寿命の三分の一も生きていない娘には、あまりにも残酷な事実だった。 しかし、朱里は苦しい息の下でも、驚くほど穏やかだった。
 その十日前から、朱里は病院に移されていた。 さすがに自宅ではもう設備が間に合わなくなったのだ。 しかし、兄と姉の心づくしで、病室はできるだけ自宅の部屋と同じように飾りつけられ、好きな椅子まで持ち込まれていた。
 麓郎は毎日通った。 義務感からではなく、行きたいから、彼が部屋に入っていくと、朱里の眼が、朝霧に包まれた湖のようにしっとりと輝くのを見るのが嬉しいから、1日もかかさなかった。
 それで、臨終に間に合うことができた。

 朱里の呼吸を楽にするために、佑磨はあらゆる手段を講じた。 ただ、人工呼吸器は取り付けなかった。 苦痛を長引かせるだけだと判断したのだ。
 家族全員に囲まれて、朱里は安らいでいるように見えた。 だが、そのときが近づいて次第に視野がぼやけてきたとき、大きな瞳を懸命に動かして誰かを探した。
「あなたよ」
 晴佳の押し殺した声が聞こえ、麓郎は遠慮して立っていたベッドの足元から頭のほうに押し出された。
 眼と眼が合った。 その瞬間、麓郎は確かに見た。 朱里の瞳孔がすうっと狭まって焦点を定め、ほっとした柔らかい輝きに包まれるのを。
 幸世がすすり泣きながら朱里の瞼を閉じさせた。 麓郎は信じられなくて、根が生えたように立ったままだった。 一瞬前は確かに生きていたのに、もう魂が飛び去ってしまったなんて、納得しろというほうが無理だった。


 翌晩の通夜の席でも、麓郎の頭の半分は上の空だった。 これが現実とは思えない。 涙は少しも出なかった。
 葬儀は三日後に決まったが、翌日も、その次の日も、麓郎は出かける支度をして、途中ではっと気付くような状態だった。 もう行く先はない。 鎌倉の家には、朱里はいないんだ。
 肝心の葬儀の日、麓郎は喪服を着たものの、なかなか足が前に進まなくて、斎場に着いたのは、すでに朱里が葬送車で運ばれた後だった。 家族は全員同伴したので、もう後片付けが始まっていた。
 麓郎が見たことのなかった、噴水の前に立って笑っている朱里の姿が、大きな遺影になって飾られていた。
「これは朱里ちゃんじゃない」
 自分に確認するように呟いて、麓郎は斎場を一人で後にした。

 翌日、大学に晴佳が訪ねてきた。 研究室でパソコンにレポートを入れていた麓郎は、学食で話をすることにして、裏庭を案内していった。
 自然の木が気ままに生えている雑然とした庭を歩きながら、晴佳は穏やかに訊いた。
「朱里の形見分けをするんですけど、うちに来ますか?」
 少し考えて、麓郎は首を振った。
「いいです。 物は欲しくないんで」
 いつの間にか、二人の歩調は揃っていた。 言葉を選んで、晴佳はゆっくりと話した。
「将来、薬品関係の仕事をされるのなら、うちに声をかけてください」
「ありがとう」
 麓郎は真面目に答えた。
「でも、そんなつもりで彼女と親しくなったんじゃないんです」
「わかってます」
 そして初めて、晴佳は麓郎に微笑を投げた。
「あなたと会えて、朱里は夢が叶ったと思います。 こんな言い方、変かもしれないけど、お幸せを心から祈ってます」
 話はこれだけですから、と言って、晴佳は食堂に着く前に別れていった。


 幸せか…… 絢爛としているが忙しくまたたくことのない静かな飾りを、麓郎は無言で見つめていた。 この行事は、元を正せば阪神大震災の鎮魂のために行なわれたルミナリエから繋がってきたものだ。 だから華やかな中にも荘厳さが感じられるのだろうか。
 どうしてもこの輝きは見ておきたかった。 なぜかこの光の中に、朱里がいるような気がして仕方がなかった。
 人々はざわめきながら進んでいく。 麓郎もゆっくりと歩き出した。
 そのとき、何かが手に触れた。 麓郎は顔を動かして確認しようとはしなかった。 ただまっすぐ前を向いたまま、指先を曲げた。
 それは暖かい感触だった。 心臓に一番近いという左手の指に、小鳥のようにそっと掴まっていた。
 やっぱりここにいたね―― 麓郎の視線は装飾を離れ、銅色に赤らんでいる空に向いた。 初めて涙が下瞼に盛り上がってきて、視界がぼやけた。 涙の訪れと共に、体が次第に軽くなって、浮き上がるような感触に包まれた。

 四百メートルの会場を歩き切ると、キャロルが風に乗って流れてきた。
『We wish you a merry Christmas
We wish you a merry Christmas,
We wish you a merry Christmas
and a happy new year!』
「楽しいクリスマスと、よいお年を、だって」
 見えない横の影に、麓郎は小声で語りかけた。
「俺たち、いい相棒だったよな」
 指を引っ張られたような気がして、麓郎は微笑んだ。
「それに、いいカップルだった」
 気配は消えた。 最後に頬をふわっとかすめて、暖かいものは飛び去っていった。
 とたんに背中から寒さが襲ってきて、麓郎は身震いした。
「これからは一人か」
 だがもう骨に染みるような孤独ではない。 そう思えた。
 風が強くなった。 再び空を見上げてから、麓郎は速度を早め、若々しい足取りでイブの雑踏に消えていった。

――終――


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