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黄金の日輪を越えて

第18章 仲たがい
夜になった。 エレが不気味に黙りこくっているので、マルゴははらはらしていた。
「侯爵は、戦いで疲れてらっしゃるのよ。 たまたま怒りっぽくなってたんだわ」
エレは化粧刷毛を鏡に投げつけた。
「たまたま? ちがう! 気にいらないのは戦いじゃなくて、この私なんだ!」
「そんなことない」
マルゴは確信を持って言い切った。
「食堂で、侯爵は何度もあなたを見てた。 話しかけたいのに、どうしてもできない様子で」
「話があるのはこっちの方」
エレの宝石のような碧がかった瞳が狭められた。「言ってやりたいことが山ほどある」
そう、山がいくつも作れるほどあるのに、いざ顔を見たら何もいえなくなった・・・・エレは自分で自分が信じられなかった。
「じゃ、私はあちらの天幕に行くわ。 いい? エレ、侯爵が戻られたら、逆らっちゃだめよ。 あの方は名門の跡継ぎで、不自由ない暮らしをしてきたんだから、フィリップみたいに子分にはできないわよ。 気をつけて、慎重に振舞ってね」
身をかがめて低い出口をくぐるマルゴの背中を見ながら、エレはつぶやいた。
「戻ってきやしないよ」
ところが、マルゴが去ったすぐ後、黒っぽい服を着た大柄な姿が、天幕の入口に立った。
入ってくるフランソワが鏡に映ったので、エレはブラシを持ったまま、勢いよく振り向いた。 胸が締め上げられたように苦しかった。 ジルやフィリップ、もちろんレオンにもない魅力を、フランソワ・ダンジャン侯は持っていた。 逞しさ、迫力、それに、悲劇的な感じさえする暗い茶色の眼の魅力かもしれない。 走り寄って抱きつきたい心を隠そうとして、エレは自分で思った以上に突っけんどんな口調になった。
「あなただったのね。 馬丁のジャンさん」
フランソワは、ゆっくり入口の幕を下ろすと、野太い声で言った。
「馬丁だなどと言った覚えはない」
エレは顔をゆがめ、カチッと音をさせてブラシを机に置いた。
「大公閣下の跡継ぎとも言わなかったじゃない」
「君は俺の身分を訊いたか?」
雲行きは初めから怪しかった。 フランソワの方も、戦闘準備を整えていた。 エレは負けずに肩をそびやかした。
「お父様もルーヴィニュイ殿も、あなたをフランソワと呼んでいるわ。 それを私にだけはジャンと名乗ったのはなぜ?」
「どの名を使おうと、わたしの自由だ」
エレは立ち上がった。 そして、マルゴの忠告を忘れてフランソワに走りより、力まかせに頬を叩いた。 フランソワのこめかみに血管が盛り上がった。 そしていきなりエレの両腕を掴むと、すごい力で持ち上げた。 彼の長い腕に顔を挟みつけられる形になって、エレは思わず小さな悲鳴を上げた。
「あやまれ」
エレは、歯を食いしばって固く目を閉じた。 フランソワは一段と低い声で繰り返した。
「あやまれ! 二度とわたしに手を出さないと誓え!」
腕の痛みよりも、理不尽に威張られる苦痛に、エレの顔はゆがんだ。 口惜しくて体が震えた。 唾を吐きかけてやろうとさえ思ったのに、口をついて出たのは、自分ではないような言葉だった。
「悪かったわ……もうしません」
フランソワは、はっとした表情でエレを見た。 こう簡単にあやまるとは思っていなかったようだった。 フランソワは、ゆっくり手を離した。 エレは眼をつぶったままだった。 胸が大きく波打っている。 その胸に、いきなりフランソワの顔が押しつけられた。 とたんにエレの眼に涙が湧きあがった。 服従すれば抱いてやる・・・・それがこの男の答えなのか。 大事にしてくれる人が回り中にいるのに、よりにもよって、なぜこんな奴が好きなんだ! エレは歯ぎしりして勢いよく跳びすさった。 フランソワは、数秒の間無言で立っていた。 それから向きを変えて、外に出て行った。
それきりだった。 エレは食事のときでさえフランソワを見かけなくなった。 どこで食べ、どこで寝ているのか、丸一週間経ってもわからなかった。
マルゴは、ふうふう言いながら洗濯籠を運んでいた。 陽射しの強いこの地方では、着ている物がすぐ汗まみれになる。 きれい好きなマルゴは、エレがいいと言うのに、せっせと洗濯に余念がなかった。 通りすがりの兵隊が陽気に声をかけた。
「べっぴんさん。 キスしてくれたら運んでやるよ」
「結構よ。 見かけより軽いの」
とはいうものの、実際は重かった。 兵隊に見えないところまで来て、マルゴはそっと洗濯籠を下ろし、額の汗をぬぐった。 そのとき、すっと手が伸びて、軽々と籠を持ち上げた。 びっくりしたマルゴが顔を上げると、白い歯が笑いかけているのが見えた。
「フラン……侯爵様!」
「フランソワだ」
そう言いながら、フランソワは籠を片手にぶら下げて歩き出した。
「久しぶりだな。 えらくきれいになったものだ」
マルゴはどきまぎした。 何と応対していいのかよく分からない。 エレは毎日むっつりしているし、彼に腹を立てているように見える。 フランソワの方はどうなのだろうか。 角を立てないで探る方法を考えているうちに、侯爵は気軽に喋り始めた。
「ここは全く暑い。 それに、戦いがだらだら長引いてもううんざりだ。 講和を結べばいいのにな」
「本当に」
マルゴはぎこちなく答えた。 フランソワは、あいているほうの手を額にかざして空を見上げた。
「何しろ雨が降らないんだからな」
不意に、彼の日に焼けた顔に影がさした。 何かを振り切るように首を動かして、フランソワは続けた。
「また君に会えてうれしいよ。 わたしたちは友人だ。 そうだろう?」
「ええ」
マルゴがすぐに答えたので、フランソワの口元を微笑がかすめた。
「いい子だ。 あのときの子牛はどうしている? 母牛は、たしかバベットだったと思うが」
「もうすっかり大きくなったわ」
気づかないうちに、マルゴも幼友達の口調になっていた。
「父の自慢の牛になってるの。 差配が相場の倍で買い取ろうとしたけど、手放さなかったわ」
話しながら、マルゴは思い出していた。 コンデ公の来訪でてんやわんやの城の中で、バベットが苦しみ始め、途方にくれていると、大柄な若者が見事な手際で助けてくれたときのことを。
「あなたが上手に産ませてくれて助かったわ。 でも、驚いて腰を抜かしそうになったのよ。 名前を訊いたら、フランソワ・コンデだなんて」
「君は本当に腰を抜かしたじゃないか。 大したことじゃないのに」
「だって、皆さんはまぶしいほど着飾っていたのに、あなただけは私と同じような格好だったから」
「それでよくわかるだろう? 服1つでどうにでもなるのさ、印象なんて」
少し黙っていてから、フランソワはさりげなく言った。
「父が妻と決めたあの女……君の乳姉妹はマドリードで大いに楽しんでいたらしいじゃないか。 なぜこんなところへ来る気になったのかな」
マルゴは当惑した。
「エレは遊び好きじゃないわ。男好きでもないし。 その反対に、追いかけまわされるのがわずらわしくて、ここに来たんだと思うわ」
フランソワは皮肉な表情でマルゴを見やった。
「そうかな? 月夜にセレナーデを歌うなどというしゃれた相手もいたそうじゃないか」
マルゴは虚を突かれて思わず口ごもった。
「あの……それは、エレに会いに来た人じゃないの……」
フランソワの眼が大きく広がった。 マルゴはもじもじして、頬が熱くなるのを感じた。 フランソワは口を尖らし、目を細めて笑った。
「そうか、これはすまないことを言った。 君はこんなに美しいんだ。 思いを寄せる男はいくらでも……」
「そうじゃないの」
あわててマルゴはむきになった。
「その人は友だちなの。 フィリップと同じ学校にいたのよ。 でも、私と仲良しになったからってフィリップに追い出されてしまったの」
「友だち以上になりそうだったから追い出したんだろう?」
「違うわ。 本当に違うの。 その人は優しくて上品な人よ。 あのまま勉強を続けていたら司教様になるはずだったの」
「ギターと歌の名手とは、変わった司教だ」
と、フランソワはつぶやいた。
「生活のためにやってるのよ。 私のせいで苦労させてるようで心苦しいわ」
「その男とは連絡が取れるか?」
「いいえ。 でも多分また会いに来てくれると思うけど、なぜ?」
「いや……わたしにしてやれることが何かあるかもしれないと思ったんだ」
マルゴは驚いた。
「フランソワ、どうしてそんなに親切にしてくださるの?」
フランソワは、はにかんだような微笑を浮かべた。
「友だちだからさ。 それに、君を見ていると、死んだ乳母を思い出すんだ。大女のスペイン人で、君よりずっと器量は悪かったが、低いやさしい声がよく似ている」
二人はまた歩き出して、エレのいる天幕の裏に到着した。 そこで洗濯物を下ろしてから、フランソワは言った。
「不自由があったら言ってきてくれ。 わたしはあそこの旗の立った天幕にいる」
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