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黄金の日輪を越えて

第17章 追いかけて
エレの平和で退屈な生活が終わる日がやってきた。 本命のフランソワは影も見せないのに、別の男が先に戦場から戻ってきたのだ。
仲良くなった貴婦人が催す小規模のパーティーに招かれていたエレは、馬車が故障したので少し遅れて館に入った。 大広間に行こうとしたエレの足が、ぎくっと止まった。 レオンがいる。 約2年ぶりに見たその姿は、よく日に焼けて髭をたくわえ、見違えるように逞しくなっていた。 レオンはギッシュと話していた。
「それでは、あの生意気な成り上がりは、ここへ無事に着いたんだな」
誰のことを言っているのか、エレにはすぐにわかった。 エレが扉の陰にいるのを目の端に捕らえたギッシュは、当惑してレオンを止めようとしたが、無視されてしまった。
「フランソワは大馬鹿だ。 結婚するならする、追い返すならさっさと追っ払うと、はっきり決めればいいんだ。
もっとも、兄は昔から頭が悪いので知られていたからな。 字はろくに書けないし、簡単な計算さえまちがえるのだから」
エレはうんざりしたが、レオンには求婚を断って恥をかかせたという負い目があるので、ギッシュに黙っているよう眼で合図して、こっそり立ち去った。
帰りの馬車の中で、エレはレースのハンカチを両手でもみくちゃにしたあげく、最後には引き裂いてしまった。 心には嵐が吹き荒れていた。
追い返す? 追っ払うって? さんざん無視したあげくに、なんだその言い草は! 押しかけてやる、とエレは決意した。 面と向かってののしってやる。 卑怯者。 嘘つき。 大馬鹿野郎!
ふんだんに与えられている生活費で、エレは特注の旅行着を二人分仕立てた。 自分は、袖を大きくふくらませたグレーのブロケードのドレスに茶色のビロードで縁飾りをつけ、青いフード付きのケープをまとう。 そしてマルゴには、黒い髪によくうつる濃い赤の乗馬服。 着飾った二人が並ぶと、まるで最高級のドレスデン人形だった。
大型で揺れの少ない馬車を雇って、エレはまっしぐらに戦場へと向かった。 2日の行程で無事たどりついた前線では、テントの前で見張りについていた若い兵士たちが、馬車から降り立った二人の貴婦人に、大口あいてひたすら見とれた。
一人が感激してささやいた。
「すげえ。 なんて言うか…… ことばが見つからねえや」
天幕の中から、コンデ公その人が、急いで飛び出してきた。 食べている最中だったようで、手にナイフを持ったままだ。 大貴族のうろたえぶりに、エレはいくらか胸がすっとした。
少なくとも父親のコンデ公は、エレをないがしろにする気持ちはないようだった。 公爵は眩しそうにエレを眺め、やさしく挨拶した。
「これはこれは、輝くばかりの美しさだ。 こんな危険なところによく来てくれた」
公は、マルゴにも愛想よく笑いかけた。
「あんたも元気そうだね。 フランソワは間もなく戻ってくるはずだ。 天幕に入って待っていなさい」
エレは一礼して、小さな手提げから扇子を取り出し、あおぎながら周囲を見渡した。 若い将校たちの視線が頬に痛いほと注がれているのを充分意識しながら。 エレはわざとやっているのだった。 一番目立つ、総司令官の天幕の前で、さりげなく流し目を使って、青年将校たちの胸をときめかせる行為を。 生まれてはじめて、エレは天から与えられた魔性の魅力の封印を解き、存分に発揮していた。 やがてエレの視野に、巨大な葦毛馬から下りる男の後ろ姿が入った。 それを見た瞬間、エレは心臓を鷲掴みにされたようになった。
広い肩。 特徴のある角張り方だ。 エレが顔を埋め、額をもたせかけたあの肩が、50歩と離れない所にあった。 男の前に、きらびやかな軍服を着た青年が立った。 男は、ほとんど飾りのない地味な服を身につけている。 しかし、かしこまっているのは、きらびやかな将校の方だった。 指図を終えると、侯爵は歩き出した。 よく日に焼けた鋭い顔が、天幕の前に立っている美女二人の方角を向いた。 その瞬間、彼は雷に打たれたようになった。 浅黒い顔が、みるみる蒼白に変わった。 マルゴは深々と膝を折って挨拶したが、エレは突っ立ったままだった。 フランソワとエレは、どちらも立ち尽くしたまま、まばたきもせずに見詰め合っていた。 石像のように動かない二人にかわるがわる眼を走らせながら、マルゴは途方に暮れた。
――こんなエレは見たことない。 いったいどうしたというんだろう―― いつ果てるともしれない沈黙を破ったのは、ふたたび天幕から現れたコンデ公だった。
「これ、フランソワ。 見とれている場合か。 早く自分の天幕に案内しなさい。 この日差しで美しいいいなずけが焦げてしまうぞ」
それでも身動き1つしないフランソワを眺めて、コンデ公は気づいた。
「そういえば、正式に紹介するのは初めてかもしれんな。 ご覧のとおり、美しいご婦人に似合う男ではないのでな。 元帥なのに、下男のような服ばかり着おって、気の利いた言葉1つしゃべれん。 これからは、あんたが監督して、少しは人並みにしてもらえるだろうが」
エレは必死に身を立て直し、背筋をまっすぐにした。
「そんな大役は果たせそうにありません。 この間ルーヴィニュイ殿にお目にかかりましたが、私のことを生意気な成り上がりと言っておられました」
コンデ公は溜め息をついた。
「レオンには、わしからよく言っておこう。 フランソワ、わざわざここまで来てくれたのだ。 大事にもてなすんだぞ」
そこでようやくフランソワが動いた。 彼は、エレに、というよりマルゴに顔を向けて、
「こちらに来てくれ」
と低い声で言い、手だけはエレに差し出した。エレは無表情で、その手に指先を軽く載せた。
フランソワの天幕は、一般の将校より粗末なぐらいのさっぱりしたものだった。 中からボサボサ頭の従卒が慌てふためいて顔を出し、
「散らかってますが」
と口ごもった。 フランソワはしゃがれた声で、
「かまわん」
と一言いうと、二人の婦人に道をあけた。
中に入って、エレはすぐ、これは馬小屋と大差ないわ、と思った。 そう思ったとたん、苦しい思い出がよみがえってきて、唇を噛みしめた。
「着替えがあるだろう」
という低い声を残して、フランソワは姿を消した。 マルゴに手伝ってもらって汗になった服を替えながら、エレは完全に無言だった。 マルゴは、心配そうに幾度も親友の顔を眺めた。 自分が着終わると、今度はエレがマルゴの着替えを手伝った。 その最中、マルゴはとうとう我慢できなくなって話しかけた。
「侯爵は気に入らなかった? 本当にとてもいい方なのよ」
エレは答えなかった。 マルゴはおずおずと続けた。
「立派な体格だし、顔も感じがいいと思うわ」
「あなたの好きなタイプは、金髪で天使みたいにきれいな人じゃなかったの?」
鋭く言い返されて、マルゴは口をつぐんだ。 エレがこういう気分になると手がつけられない。 そっとしておくしか道はなかった。
まだ暑さの残る夕刻、首まできちんとボタンをかけた若い中尉が、上気した顔で、夕食を知らせに来た。 食欲などまるでなかったが、エレは長旅で疲れた体に鞭打って天幕を出た。
しかしながら、夕食は最初から波乱ぶくみだった。 食堂用天幕に入ったとたん、エレはぎょっとした。 なんと、レオンが戻ってきている! しかもその席順は、エレの隣になっていた。
フランソワは既に席について、黙々と食べていた。 エレは弱みを見せないように、できるだけ堂々と椅子に近づいた。 すると、給仕が来る前に、将校が二人も席を立って、エレのために椅子を引こうと争った。 いざ座ってからも、試練は続いた。 フランソワが皿から顔を上げないので、調子に乗った青年たちは、我先にエレに話しかけ、関心を引こうとした。
「このクルミ、うまいですよ」
「オレンジをむいてさしあげましょう」
「その肉は固そうだ。 わたしのとお取替えしますよ」
さっき思い切り愛嬌を振りまいたのがたたったらしい。 エレは回り中から降り注ぐ好意の押し売りに、いちいち笑顔で応えているうち、頬が引きつってきた。 そのとき、いきなりフランソワが、がたんと大きな音をさせて立ち上がって、周りを驚かせた。 彼は、手で触ったら切れるほど鋭い目つきでじろっと見渡すと、荒々しく言った。
「なんという奴らだ! ここは戦場だぞ! 勝手に押しかけてきた女どもをちやほやするんじゃない!」
食堂は静まり返った。 フランソワは、呆気に取られている人々を尻目に、大股で出ていってしまった。 皿に目を据えて、エレは食事を続けた。 レオンがこっちを眺めているのが悔しくてならなかった。 もっとも、レオンの視線は、奇妙な、同情に近い光を帯びていたのだが。
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