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黄金の日輪を越えて

第16章 再会
枯れ葉が街を舞う頃、エレ宛の手紙が女子修道院に届いた。 ヴィクトールが珍しく乱れた筆跡で知らせてよこしたのは、ジルベールが家出したという驚きの事実だった。
二度じっくりと読み返した後で、エレは沈痛な面持ちで、横に立つマルゴに告げた。
「ジルがマルセイユに行っちゃったんだって。 イエズス会の神父になるって言い残して」
足から力が抜けて、マルゴはそばにあったベッドに座り込んでしまった。
「どうして!」
エレはただ首を振っただけだった。 なんとなく理由がわかる気がしたが、推測で口にするのははばかられた。
「続きがあるよ。 父様はひどく落ち込んでる。 無理ないよね。 大事に育てた子供たちが全員カトリックの神父や尼僧になるって言い出したんだもの」
そこでふっと溜め息をついて、エレは何でもないように付け加えた。
「戻ってこないかと言ってきてる。 私に縁談だそうだ」
どこか口調がおかしかったので、マルゴは物思いからさめて、エレに視線を当てた。
「そうなの?」
「うん」
エレはすっと手を伸ばして、手紙をマルゴの膝に置いた。
「相手はフランソワ・ダンジャン侯爵。 コンデ公の長男だって」
とたんにマルゴが眼を輝かせて身を乗り出したので、エレは驚いた。
「へえ、フランソワ殿! 私、会ったわ」
エレの眼が大きく見開かれた。
「どこで? 私には紹介もされなかったよ」
「ああ……それはね、コンデ公があなたに会わせても無駄だと思ったからなんですって。 本人から聞いたの」
「どういうこと……?」
不意にエレは息が苦しくなった。 その緊張した様子に気づかずに、マルゴは楽しそうに答えた。
「ジロンに到着する前は、花婿候補はフランソワ殿だったそうよ。 でもコンデ公があなたを一目見てあわててしまって、レオン・ルーヴィニュイ殿に替えたらしいの。 レオン殿はきれいだから、エレに気に入ってもらえると思ったのね」
「それじゃ……」
エレの声が細くなって消えた。 エレから何も聞かされていないマルゴは、無邪気に続けた。
「フランソワ殿は、いわゆる美男じゃないの。 背が高くて姿はいいんだけど、おしゃれが大嫌いで、人間より馬や牛が好きなんですって。 だから晩餐やパーティーに出してもらえなくて、軍人たちと食事をしていたわ。 あまりコンデ公に愛されていないみたい」
たまらなくなって、エレは窓辺に歩み寄り、外を見るふりをした。 その様子を勘違いしたマルゴが、あわてて付け加えた。
「でも、すごくいい人よ。 バベットが急に産気づいて、私が一人で困っていたら、助けてくれたの。 やさしくて思いやりがあったわ。 きっとレオン殿よりいいお婿さんになると思う」
その晩、エレはいつまでも寝付かれなかった。 コンデ公はどうして長男を花婿候補のままにしておいてくれなかったのだろう。 そう思うたびに、心がじりじりと火で焼かれるように苦しかった。 貴族たちの権力闘争は勢いを失っていた。 宰相マザランの後押しで、ルイの王座は揺ぎないものになりつつある。 コンデ公は新王に反逆者とされているので、影響力を保つために、今こそ切り札が必要になったようだった。 ダンジャン侯の花嫁…… いや、ジャンの妻になるんだ・・・・そう思った瞬間、エレは自分の体を抱きしめた。 あの様々な表情を見せる焦茶色の眼、筋骨たくましい腕と締まった胴、低い魅力的な声。 またあの人に会える……! エレにはとっくにわかっていた。 ジャンが再び目の前に現れたら、親もきょうだいも捨てて後をついていってしまうことが。
二人がジロンに戻って三日もしないうちに、スペインから使者たちが来た。 コンデ公の軍隊は現在、スペインで領土をかけて戦いの最中なのだった。 今度こそ逃すまいという気持ちらしく、一行は素晴らしく豪華な花嫁道具をたずさえて来た。 ドレスだけで20着以上。 ずっしりと重い櫃をあけると宝石があふれ出た。 しかし、その贈り物でエレを驚かそうと思ったとしたら、失敗だった。 エレは丁重に礼を言うことは言ったが、ウズラの卵ほどあるエメラルドを見ても、眉1つ動かさなかった。 それより、エレが興味を示したのは、使者の長として訪れたハンサムな貴族のほうだった。首をかしげて、ギッシュ伯爵のなめらかな口上を聞いていたエレは、彼がヴィクトールに挨拶して引き下がったところを捕まえて尋ねた。
「お顔をどこかで見たような」
伯爵は人なつっこく笑い、
「わたしは、ルーヴィニュイ殿に殴られかけて、あなたに助けていただいた小姓です」
と答えた。
「ああ、そうでしたね」
思い当たって、エレも笑顔になった。
「立派になられて」
「エレーヌ様こそ」
真顔に戻って、ギッシュ伯アルマンはつくづくエレを見つめた。 そして、ぶしつけなほど視線を据えていたことに気づき、あわてて詫びた。
「すみません。 あまり輝いておられるので」
結婚の条件としてエレに求められたのは、トゥールーズで旧教に改宗することだった。 ヴィクトールは不機嫌になったが、娘の幸せのために、しぶしぶ承知した。
スペインに入ったら、すぐジャンに会えるものと、エレは思っていた。 だが、コンデ一族はマドリードにはいなかった。 そろって戦いに出かけているという。 中途半端な身分のままで、エレは豪華なダンジャン侯の館に入った。 もちろんマルゴも一緒だ。 表向きは侍女ということにしているが、実際にはエレの乳兄弟として、他の召使たちから一目置かれる存在だった。
主のない館の女主人として、エレは数ヶ月を過ごした。 ギッシュ伯が始終トゥールーズから越境してきて、エレをあちこち連れ出してくれたので、退屈したり心細かったりすることはなかったが、間もなく別の悩みが出来てしまった。 活動的なエレはすぐにスペイン語を覚え、友人ができた。 それはいい。 ただし、エレのほうはただの知り合いと思っているのに、友人以上になりたがる青年貴族が、異様に増殖しはじめた。 未来の夫は、一向に戻る気配がない。 エレは、おとぎ話の《ベルとまもの》の主人公ように、自由に婚約者の金を使って、義務はひとつも果たさずに暮らしていた。
「これなら尼僧院に入ってるのと同じで、戒律がないだけいいね」
と、エレは冗談半分、やけ半分でマルゴに言った。
そんなある夜、マルゴは不思議な経験をした。 初夏の夜の精霊に惑わされたかのような、現実離れしたひとときだった。
その夜、エレはギッシュ伯に誘われて、トゥールーズに来た国王を見に行っていた。 マルゴは刺繍を仕上げたかったので屋敷に残り、燭台の明かりに照らされて、のんびりと針を運んでいた。 九分通り刺し上がって、軽く伸びをしたとき、マルゴはふっと耳をすませた。 どこかでかすかなギターの音がする。 その音は、次第に大きくなり、美しいセレナーデに変わった。 誰かが窓の下で、恋歌をかなでようとしているのだった。 マルゴは針を置き、窓辺に近づいた。 やがてギターの音色に、やわらかなバリトンの歌声が加わった。 何というきれいな声・・・・マルゴは、思わず胸に手を当てて目を閉じた。 心にじんわりと染み入るような、素晴らしい美声だ。 これって、修道院で語り合っていた恋の冒険そのものだわ・・・・マルゴはうっとりして、しばらく聞きほれていた。 残念ながら、歌詞はマルゴにはわからなかった。 最初から最後までスペイン語だったからだ。 きっと、エレにあこがれた地元の青年が、楽士を雇って奏でさせているのだろう。肝心のエレがいなくて気の毒に、とマルゴは思った。 歌が終わったので、マルゴはそっと窓を開いた。 そして、エレーヌ様はおいでになりませんよ、と言おうとして上半身を乗り出した。 そのとき、おやっと思った。 月の光に白く輝く道には、楽士ただ一人しかいなかったのだ。 その楽士は、マルゴを見るとすぐにギターを置いて立ち上がった。 飾りのない服に、顔の上半分を隠すマスクをつけて、目深につば広の帽子をかぶっている。 南部地方の吟遊詩人の身なりだった。 マルゴは、片言のスペイン語で呼びかけた。
「とてもお上手ですね。 でもセニョリータはお留守です。 またあした来てください」
男は一瞬動きを止めた。それから片手を乞うように差し出し、やや高い声で叫んだ。
「マルゴ!」
不意にマルゴの心が小鳥のように跳ねた。 この声は…… この呼び方は…… 記憶を絞りきれないでいるうちに、男は帽子を取り、やさしい調子で呼びかけた。
「久しぶりだね。 わたしを覚えているかい? ナントのやせっぽっちの友達を」
「ジュール!」
マルゴは息をつまらせ、バルコニーにすべり出て、螺旋階段を速足で駆け下りた。 ほの暗い庭に出ると、ギターを持ったジュールが木戸を軽々と飛び越えて入ってくるのが見えた。 マルゴはためらいなく青年に駆け寄った。 ジュールはマスクを取って、にっこりした。大喜びでジュールの手を握りながら、マルゴは小声で、気がかりでならなかったことを口にした。
「心配してたの。 しょうのないフィリップがあなたを学校から出してしまったと聞いて、あきれたわ。 ほんとに、無事でよかった!」
二人は手を取り合って、はしゃぎながら2,3度ぐるぐる回った。 足を止めると、ジュールはマルゴの細かく波打った髪をそっと撫でた。
「心配させて悪かった。 置手紙を残して他の人に見つかったら迷惑だと思ったんだ」
マルゴはジュールの腕を軽く押さえてみた。肉付きがよくなっている。 ほっとして、マルゴは明るい声になった。
「半年ぶりね。 背が伸びたみたい」
「君も、こんなにすらりとして、春先のポプラのようだ」
「スカートが長くなって、歩きにくいの」
二人は微笑みあった。 淡い月の光でも、ジュールの美貌に一段と磨きがかかったのがわかった。 ここにいるのが私でなかったら、きっと胸をときめかすわ、とマルゴは考えた。 二人は東屋に行って、白いベンチに腰を下ろした。
「吟遊詩人になったの?」
「いや……」
あいまいに言葉を濁すと、ジュールは帽子を脇に置いた。
「もう少しましなことをしてる。 まあ、見方にもよるが。 あと半年か一年もすれば、ある程度の地位につけるかもしれない」
そこでジュールは、月明かりを反射している濃青色の瞳をマルゴに据え、じっと見つめた。
「そうなったら、またわたしの友達に戻ってくれるかい?」
マルゴは熱心に相手を見返した。
「今でも友だちよ。 あなたが吟遊詩人でも、たとえ乞食になったとしても、いつまでも友だちだわ」
その手をそっと握ったりゆるめたりしながら、ジュールは低い声で言った。
「それじゃ……約束してもらえないか。 これから一年間、他の誰とも結婚しないと」
マルゴは瞬間、言葉を失った。 これはどういう意味なのか。 遠まわしな申し込みのようにも思えたが、確かめるのが怖かった。 私は誰とも結婚できないのよ、とマルゴは心の奥で呟いた。 だが、口に出す勇気はなかった。 それに、友情を失いたくない気持ちが強くて、自分をごまかし、思わずうなずいてしまった。
「ええ、誰とも」
少なくとも嘘をついてるわけじゃない、とマルゴは良心に言い聞かせた。 ジュールは、数秒間の沈黙の後、かすかに息を吐くと、マルゴの手を持ち上げて、触れるか触れないかのキスをした。 それでマルゴは我に返った。 20歳ぐらいの若い男の体が、すぐ横にいることを痛切に意識した。 このロマンティックな薄暗がりで、ジュールが抱き寄せたいという誘惑に駆られたらどうしよう。 マルゴは、失礼にならない程度にじりじりとベンチの端に寄った。 ジュールは身軽に立ち上がると、マルゴに微笑んでみせた。
「もう行かなくちゃ」
マルゴも微笑んだ。
「誰かに頼まれて、この屋敷のご主人にセレナーデを贈っていたの?」
「ちがうよ」
木戸を乗り越えながら、澄んだ声が楽しそうに答えた。
「君のために歌ったんだよ!」
マルゴはびっくりした。 急いで木戸に近づいて開き、どうして自分がここにいることがわかったのか、尋ねようとした。 だが、広い道はぼんやりと月光に照らされているばかりで、人影ひとつ見えなかった。
背景:Kigen
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