目次 表紙

line

黄金の日輪を越えて

line
第15章 嫉妬



 薄青い空に、刷毛で撫でたような雲が幾筋も浮かんでいた。
 マルゴとジュールは、太い幹に寄りかかって座っていた。 肩と肩が触れ合っている。 ジュールが棒切れで地面に図を描いて、マルゴに説明していた。
「ここから水を入れて、ここで受けると、約4倍の効率でこの車輪が回るんだ。 ダ・ヴィンチという人の発明なんだ」
「ロバで何回も往復する手間がはぶけるわね」
 感動して、マルゴは眼を輝かせた。
「そうだよね。 僕が読んだのはここまでなんだけど、イタリアに行けばもっといろいろ分かると思う」
 棒切れを置いて、ジュールはぐんと背伸びした。
「いつかイタリアに行ってみたい!」
「兄もそう言ってたわ」
 腕を半分降ろしかけて止めて、ジュールはマルゴに顔を向けた。
「お兄さんがいるの?」
 マルゴはこくんとうなずいた。
「妹と同じで本当のきょうだいじゃないけど。 兄は絵が得意なの。 だから、カラヴァッジョやボッティチェリの絵が見たい、研究したいって」
 そこでマルゴは、はっとなった。 ジルも足かけ三年、隣の修道院学校に入っていたのだ。 マルゴは上目遣いになって、ためらいながら訊いてみた。
「あの、ジルベール・ド・サンマルタンって言うんだけど……」
 瞬間、なんともいえない表情がジュールの顔に広がった。
「ああ…… 彼が入学してきたとき、ちょっとした騒ぎになったよ」
 そっくりだもの、とマルゴは思った。 ジュールはそれ以来、口を閉ざしてしまった。
 彼がいつまでも黙っているので、困ったマルゴは、下を向いた顔を覗きこんだ。
「どうしたの? ジルのこと嫌いだった?」
「いや…… でも、彼の方は嫌っていたかも」
「そんなことないと思う」
 マルゴはあっさり否定した。 ジュールの青い眼が上がった。
「なぜ?」
「ジルは無表情だけど、すごく優しいから。 人の悪口言うの、聞いたことがない」
「うちに帰って学校の話をしないの?」
「ほとんどしない。 たまにフィリップのことを言うけど、それはあの子が私たちの友達だからで」
「そう」
 なんか、ほっとしたみたい・・・・マルゴは、ジュールがジルと何かあったのではないかと思ったが、口には出さなかった。

 そろそろ木の葉が黄色くなりかける季節だったが、その日はぽかぽかと暖かく、マルゴは裏庭でジュールを待ちながら、うららかな日差しと低い虫の羽音に包まれて、知らぬ間にうたた寝を始めた。
 こういうとき、いつもマルゴを襲うのは、夜盗どもの悪夢だった。 エレの弾力のある体が横にある夜は大丈夫なのだ。 エレはマルゴの守護神で、常に頼もしい味方だから、そばにいるとわかれば安心して眠れる。
 だが、たまに一人で眠らなければならない時は恐ろしかった。 この午後も、初めは暗黒の世界が押し寄せてきて、眼をつぶりながらもマルゴは顔をしかめたりくしゃくしゃにしたりして落ち着かなく寝返りを打っていた。
 それが間もなく一変した。 悪鬼は去り、マルゴは広々とした野原にいた。 小鳥の声が天上の音楽のように耳に快い。 マルゴはうっとりして、どこまでも歩いた。
 いくら歩いても疲れなかった。 しかし、妙なことに首が痛くなってきた。 これが夢だと知っている心の一部が、いやがるマルゴを起こしにかかった。 このままでは寝違えになってしまうからだ。
 仕方なく薄目をあけたマルゴは、青白い顔が間近で見下ろしているのに気づいて、どきっとした。 何と、マルゴはジュールの膝枕で寝ていたのだった。
 マルゴは、あわてて身を起こしながらあえいだ。
「まあ……いつから?」
 ジュールは、微笑しようとしたが、緊張で顔がいくらか強ばっていた。
「20分ぐらい前からかな」
「そんなに! 重かったでしょう」
「いや」
 二人は少しきまり悪そうに微笑みあった。
「今日はダンスの練習がきつくて疲れたの」
と、マルゴが言い訳がましく言うと、ジュールは眼をぱちぱちさせた。
「上流社会へ乗り出す準備だね」
 マルゴは苦笑した。
「私にはそんな野心はないわ。 だから田舎に帰って働くの」
「君の田舎って、どこ?」
 小さい声だった。 息をひそめて訊いた感じがあった。
「ジロンよ、ロワール河のほとりの。 古い古い城に住んでいるの」
 ジュールは半ば顔を向けて、ちょっと微笑した。
「僕は北のほうの出なんだ」
「寒いところ?」
「冬はね。 スイスの近くだから」
 ジュールはそれ以上話さなかったし、マルゴも、詮索好きではないので訊かなかった。 それが後で、後悔の種になるのだが。

 初めてジュールに会ってから6週間が過ぎた。 季節の変わり目で雨が多く、5日もジュールに会えなかったため、マルゴは少しいらいらし始めていた。 それで、散歩に行く少年たちの行進の足音を聞くと、塀から覗いてみた。
 そんなマルゴを、フィリップが見つけて、列を抜け出し、引率者に袖の下を握らせて塀に近づいてきた。 そして、いとも簡単に塀を越えて入ってきた。
 フィリップはいくらか背が伸び、男性的になっていた。 髭を生やしかけているので、マルゴはちょっとたじろいだ。 幼なじみが異性を感じさせると、遠くなった気がする。 なんだか緊張した。
 マルゴをじろじろ見ながら、フィリップは唐突に言った。
「あいつを探してるんだろう。 ジルそっくりの金髪の奴」
 困って、マルゴは眼をぱちぱちさせた。
「どうしてそう思うの?」
「あいつがさっきの僕みたいに塀を乗り越えて入っていくのを見たんだ。 5日前に」
 マルゴは、ますます当惑した。
「私……」
「君、奴に上着をやったろう」
 フィリップの眼は、あからさまな嫉妬に燃えていた。 覚悟を決めて、マルゴはジュールに命を救われたことをフィリップに話した。
 フィリップは驚き、それから、涙を流さんばかりに怒った。
「マルゴ! なんていうことをするんだ! ひとこと嫌だと言えばすむことじゃないか!」
「言えなかったのよ」
 うつむいて、マルゴは呟いた。
「両親に逆らいたくなかったの」
「死ねばもっと親不孝だ!」
 激しい息をつきながら、フィリップは叫んだ。
「そういうことなら……そういうことなら、あいつもはっきり言えばいいのに!」
 嫌な予感を感じて、マルゴはフィリップを見すえた。
「どうしたの? 何をやったの?」
 フィリップは、気が咎める表情になって横を向いた。
「生意気だから、やめさせてやったんだ」
「フィリップ!」
 マルゴは、フィリップの手をぎゅっと掴んだ。 爪を立てられて、フィリップは、
「痛い!」
と叫んだ。
「フィリップ、あなたがそんなことするなんて」
 フィリップは口の中でもぐもぐと言い訳した。
「1年以上も月謝をためてたんだぜ。 坊さんたちのひいきで置いてもらってたんだ」
「余計かわいそうじゃないの! うちよりもっと貧乏らしかったわ。 そんな人をいじめて!」
 悲しくなって、フィリップは癇癪を起こした。
「君が奴と仲よくしたりするからだ!」
「仲よくしたってどうということはないでしょう?」
「どうってことあるさ! 誰とも仲よくしてほしくないんだ!」
 マルゴはどうにか気を静めた。 起きてしまったことは仕方がない。 元気のない声で、マルゴは尋ねた。
「暮らしのあてはあるかしら」
「何とかするだろう」
 フィリップは冷淡だった。

 なんだか急に張り合いを無くした気持ちで、マルゴはフィリップと別れた。 それにしても、どうして黙って立ち去ってしまったのだろう。 どこかに置手紙が隠してないかと、裏庭を探してみたが、見つからなかった。
「どこに行っちゃったのかなあ」
 考えてみると、ジュールは自分の私生活をほとんど語らない少年だった。 だから故郷さえわからない。 もう二度と会えないかもしれなかった。 しばらくの間、マルゴは家族を失ったような寂しさを味わった。



表紙 目次前頁次頁
背景:Kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved