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あおのロンド 3


 白いグランドピアノの前に座っていたのは、モノトーンの斜め縞のシャツという、地味なようで非常に目立つ格好をした若い男性だった。 力を抜いて自然体で弾いているが、難しい装飾和音がいとも簡単に指の下からすべり出てくる。 音楽は素人のマオにも、相当な腕前だと感じられた。
 左のテーブルが嬉しそうにざわめいた。
「ねえ、あれユラの曲じゃない? そうよね?」
「うん、去年流行った《My people》」
 いっせいに視線を向けた女性陣に、ピアノ弾きの青年は人なつっこい笑顔を見せ、軽く頭を下げた。 そのテーブルにユラが混じっていることを、明らかに意識した表情だった。
「あれ即興なの?」
「そうね、自分流に編曲して弾いてるみたい」
「うまいなあ。 それにあの人もきれい!」
 ここぞと右テーブルに当てつけがましく、、シャネルが高い声で褒めた。
 ユラは、ちょっと困ったように薄ら笑いを浮かべていた。 友達との食事会でまで、プロの世界に引き戻されたくなかったのかもしれない。
 青年は滑らかに弾き続けていた。 しっかりした指先から紡ぎ出されるメロディは、ユラの曲に共通の哀愁を帯びた叙情性を、更に心打つものに仕上げていた。
 間もなく、ユラの表情が真面目になった。 そして、フォークを置いてすっと立ち上がると、彼の傍に歩み寄り、ピアノに片肘をついてじっと聞き入った。
 小波のような余韻を残して、演奏は終わった。 間をおかずにシャネルが盛大な拍手を送った。 すぐに他の客も手を叩き、ゆったりした店内は室内楽のコンサート・ホールのような雰囲気になった。
 青年は椅子から立ち、いくらかぎこちなく頭を下げた。 そして、ユラに向き直り、いたずらの言い訳に似た口調で言った。
「なんかやり過ぎって空気ですね。 悪かったです。 この曲しっかり記憶に入りこんでて、さっきユラさんを見たらどうしても弾きたくなっちゃって」
「すごい」
 簡潔に、ユラは答えた。
「耳からフワーッと魂に食い込んでくる」
「あれ、そうですか?」
 焦って、青年は下ろしたピアノの蓋に指をはさんでしまった。
「いてっ」
「大丈夫? 怪我しますよ」
「いえ、平気です……」
 有名なユラがすぐ横にいることで、青年はたじたじとなっている様子だった。 ユラはほほえみ、尋ねた。
「お会いするの初めてだと思うけど、プロの方?」
「そうなれればいいなと夢見てます。 でも現実は、ここでおととい試験採用してもらったばかりの、駆け出しです」
「駆け出し?」と呟いて、ユラは額に皺を寄せた。 信じられない、という声音だった。
「じゃ、定職は」
「ありません。 たまにバイトしてるピアノ・ニートです」
「ちょっと待って」
 不意に、ユラは早口になった。
「まず名前から聞かせて」
「はい?」
 びっくりして、青年の声が上ずった。 困った顔に構わず、ユラは強引に続けた。
「お名前。 どうぞ!」
「あの、堀田です。 堀田宏章〔ほった ひろあき〕といいます」
「堀田さん。 東京に住んでますか?」
「はい。 世田谷に下宿してますけど」
「決まり」
 ひどくあっさりと、ユラは決定した。
「私の曲、アレンジしてください」


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