白大理石で統一された化粧室で、洗面台の横に張り出した楕円形のミニテーブルにポーチを置き、マオは軽く髪をブラッシングした後、ルージュ・パレットを取り出して紅筆を手に持った。
背後のドアが開いて、プリント柄のドレスがちらりと目を射た。 マオは唇の輪郭を手早く描き、リップと筆をポーチに戻して立ち上がろうとした。
すると、シャネルのプリント・ドレスが気取った足取りで歩み寄ってきて、いくらかきんきんした声で尋ねた。
「あなたヘアメイクさんなんですって?」
「ええ」
マオが普通に答えると、シャネルは彼女を押しのけるようにして座り、横柄に言った。
「じゃ、お願い。 私の顔直してちょうだい」
「今は仕事の時間じゃありませんから」
マオの声は凛とした響きを持っていた。 そこで止めればよかったのだが、シャネルは言いつのった。
「断るの? ちゃんとお金はお払いするわよ。 いくら? 一万?」
「失礼します」
「ちょっと!」
ぐいと伸ばしたシャネルの手が、マオの持っていた白いポーチに引っかかった。 半ばファスナーの開いたポーチは床に転げ落ち、中身が散乱した。
「あら」
中途半端に腰を浮かせて、シャネルはこぼれた化粧品を見下ろした。
「ルージュ、折れちゃったみたいね」
フェンディは少し離れたところに立っていた。 別にシャネルに加勢はしないが、マオに注意を向けるわけでもなく、知らん顔を決めこんでいた。
マオは顔をうつむけ、右手を伸ばしてポーチだけを拾った。 その強ばった表情を見て、フェンディの顔色がいくらか変わった。 一触即発だと気付いたのだ。
しかし、シャネルは自分の体面ばかり気にしていて、マオが本気で怒り出したことに気付かなかった。
無言のまま、マオは歩き出した。 床に散らばった化粧品には見向きもせずに。 するとシャネルが嘲るように言った。
「散らかしたまま帰る気? そんな安物の品、私たちのものと思われたら迷惑だわ」
「じゃ拾って。 あなたが落としたんだから」
鋭い口調で言い返されて、シャネルは目をむいた。
「何よ、えらそうに! たかが……」
そこで断ち切られたように、シャネルは言葉を失った。 すっと床に身をかがめて、落ちた化粧品を拾い集めている姿が目に入ったからだ。
それは、晴佳だった。 広げたハンカチの中に拾った品物をすべて納めて、晴佳はマオに差し出した。
「はい」
反射的に、マオはハンカチ包みを受け取った。 すると晴佳は、考え深そうに話しかけた。
「すばらしいコスメ持ってるのね。 それ予約しても半年待たされるっていうD社の化粧水でしょう? それにA堂の幻のアイブロウ。 私もこの間やっと買ったの」
シャネルの口がぽかんと開いた。 晴佳は彼女をせき立てた。
「早くして。 ユラはそろそろうちに帰らないといけない時間よ」
「でも晴佳! この人が私に!」
聞き分けのない友達に、晴佳はじろっと冷たい視線を向けた。
「関係ないわ。 向こうで待ってる男の人たちを全員敵に回す気なら一人でやって。 行こう、水月〔みつき〕」
水月と呼ばれたフェンディは、あっさりうなずいて晴佳に従った。 シャネルは唇を震わせながらマオを睨み、罵り言葉をかけようとしたが、なんとか思いとどまって、荒々しい靴音を響かせながら前の二人を押しのけ、先に化粧室を出ていった。
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