マオは立ったまま、唇を強く噛んで鏡を見つめた。 三歳から預けられた岬山愛育園と、小学校の裏庭で出合った様々な試練が、忘れかけていた心にくっきりと蘇り、灰色の影を落とした。
マオは孤児だった。 孤児には親の保護がない。 いじめられても庇ってくれる大人がいないし、たまに先生まで邪魔者扱いする。 だから嫌でも強くなるしかないのだが、それにもやり方があった。 相手に怪我をさせないように倒す、というのが、喧嘩の鉄則なのだ。 血を流すと、喧嘩相手の親に非難する口実を与えてしまうからだ。
子供の頃は、相手の足を払ってのしかかり、うつ伏せにして両手を後ろにまとめ、背中に馬乗りになった。 そうするといくらジタバタしても抵抗できなくなる。
さっきの気取ったカンカン娘(=ミュールやルーズなハイヒールなどで道を打ち付けて、カンカン音を立てて歩く)と、取っ組み合いの喧嘩をやったらどうなるだろう。 絶対勝つと自信があった。 あんな、親の財力をバックに威張っている女は、実戦には弱いにちがいない。 せいぜい引っ掻くか髪を引っ張るぐらいだ。 そして盛大に泣き喚く。
あの人にはいくら口惜しがっても手に入らない人が、私を好きになってくれたんだ――そう自分に言い聞かせて、いくらかすっとしたので、マオは気分を整えて化粧室を出た。
室内に戻ったときには、左のテーブルは空席になっていて、ウェイターがてきぱきと皿を下げていた。 ユラの姿もすでになく、ピアノ弾きの青年は静かにアラジンのテーマ曲をかなでていた。
マオの姿を見つけて、ライリーがうれしそうに立ち上がった。
「やっと出てきたわね。 まあ女性が身だしなみに気を遣うのはいいことだけど。
さあ二次会に繰り出しましょう。 どこにする?」
「エル・マリアッチは?」
「いなだ亭もいいよ」
「あのね、マーコの店に行ってみたいんだけど。 2週間ぐらい会ってないんだ」
マーコ、本名は服部真帆〔はっとり まほ〕、はマオの幼なじみで、居酒屋の主人と結婚している陽気な美人だった。
結城誠也よりヨウちゃんのほうが先にうなずいた。
「いいよ、行こう」
ライリーは、気がすすまないように椅子から身を起こした結城に、早口で囁いた。
「あんた、マーコにまで焼き餅やくの?」
「そういうわけじゃ……ただ、二人でずっと話しこんじゃうから」
「女同士の積もる話ってあるのよ。 今夜は奥さん孝行しなさい」
すうっと息を吸って、結城は笑顔になってうなずいた。
翌日の午後、マオは三日ぶりに夫の仕事場である品川区のビルを訪れた。 結城誠也が副社長を勤める『ハルバート・プロダクション』という芸能プロは、ビルの五階をワンフロア借り切って、今や日の出の勢いで営業していた。 テレビに舞台に活躍する売れっ子タレントを七人も抱えている上に、誠実な結城の対応が実を結んで、ベテラン俳優がアレンジやマネージメントを任せてくれるのが大きかった。
仕事が順調なのは、妻のマオにとっても嬉しい。 軽い身のこなしでドアを開くと、尾関義美〔おぜき よしみ〕が笑顔で迎えた。
尾関はもともと副社長の個人秘書だったのだが、人なつっこさと面倒見のよさを見込まれて、自然に受付・広報・渉外係と雑多な仕事を引き受け、今や事務所の牢名主、とたてまつられる存在になっていた。
「おはようございます」
芸能界は勤務時間が決まっていないので、真夜中まで仕事、ということがざらにある。 そのせいか、いつ会ってもおはようと挨拶する習慣ができていた。 業界用語だと嫌う人もいる。 午後におはようと言われれば、確かに抵抗感はある。 でもマオはにっこり笑って挨拶を返した。
「おはようございます」
「お仕事ですか?」
「ええ、江田塔子〔えだ とうこ〕さんのメイクを」
「あ、こちらで待ち合わせ」
「そうです」
マオは仕事上の知り合いの誰に対しても、言葉をていねいにするよう心がけていた。 ハルバート社長の小西いちなとは対照的だ。 いちなは他社の社長が倍近い年齢でも、平気で対等に話しかける。 美貌で押しが強いので、メデューサなどと陰で噂されていた。
「社長は?」
「映画の共同企画の打ち合わせに、大阪へ行かれました」
「『椋鳥は羽根を休めて』?」
「はい」
それは今年上半期のベストセラーで、東松映画社が映画化権を買い、ハルバート・プロの人気者二人を主役に来年のお正月映画として大々的に全国上映しようとしている、大企画だった。
「それで、副社長も一緒に?」
なんとなく声が小さくなった。 仕事場では夫を副社長と呼ぶことにしているが、いつもきまり悪い思いをする。 案の定、尾関はにやにやしながら思わせぶりに答えた。
「いいえ、もうじきこちらに戻ってこられるはずです」
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