その晩の八時少し過ぎ、田坂は武蔵野市にある横川邸の、大型車が六台入る広い駐車場に車を入れ、ランチボックスぐらいの大きさの箱を持って、玄関に続く階段を上りはじめた。
そのとき、ひらっと何かが降ってきた。 白いものがくねりながら目の前を横切ったので、まるで人魂のようで、田坂は一瞬ぎくっとなり、首筋に冷や汗が浮いた。
立ちすくんだ彼の足元に、その白い物体は吹き寄せられるように落ち、暗い段の上で動かなくなった。 目を凝らして見ると、それは淡雪のようなレースのストールだった。
ゆっくり拾い上げた田坂の視線は、本能的に上に向いた。 すると、階段を上がった先の手すりに、誰かが座っているシルエットがぼんやりと浮かびあがっていた。
田坂に見つかったのがわかったのだろう。 涼やかな声が夜気を伝わって響いてきた。
「持ってきて」
持ってきて? ありがとう、ではない。 驚かせて悪かった、でもない。 それは命令だった。 しかも、田坂の聞いたことのない声からの。
知らん顔をして階段の横にひっかけておいてもよかった。 だが、耳に入ってきた声が田坂の好みに合っていた。 柔らかで、どこか物憂い、品のある声――だから黙ってストールを手に、田坂は階段を上がっていった。
玄関前の照明を背にして、女は腰を下ろしていたので、シルエットしか見えなかった。 どうやら長いスカートの下で足をぶらぶらさせているらしい。 田坂が最後の一段を踏んだとき、カタッと小さな音がして、今度は足元に靴が転がり落ちてきた。
笑いを含んだ声が言った。
「拾って」
このバカ、と田坂は胸の奥で呟いた。 金持ちの娘や奥方たちには、たまに信じられない我がまま者がいる。 だが、そういうアホ女はお世辞に弱く、上手に扱えば良い顧客になってくれることがあるのを、まだ実務経験六年の田坂でも知っていた。
逆に冷たくすれば話を十倍ぐらいにして言いふらされる。 ここは節を曲げて拾っておいてやるのが賢明だった。 仕事やプレゼント選びで疲れ、腰が強ばっていたが、やむを得ず田坂は前にかがんで、白っぽい靴の片方を拾いあげた。
すると女は、すぐそばにある田坂の肩に手をかけて囁いた。
「履かせて」
内心の溜め息を押し殺して、田坂はついと差し出された足に靴を被せた。 そして、肩に載った手をさりげなく剥がしながら力を貸して、地面に立たせた。
さすがに話しかける気分にはなれず、彼は無言のまま階段を離れて、光の洞穴のように輝く玄関に向けて歩き出した。 だが、大きな照明の届く範囲に入る前に、手を引かれた。
袖ではなく、じかに手を掴まれた。 はっとして思わず動きを止めた田坂に、女は早口で告げた。
「政信さんはあっちの大きい部屋じゃなく、オーディオルームにいるわ」
そう言うなり、女は力を入れて田坂を引っ張り、薄暗い庭をどんどん進んでいった。
オーディオルームには巨大なスクリーンが設置してあって、最新の映画が見られる。 先週ロスから帰ってきたばかりの横川政信が、珍品を仕入れてきて見せたがっているのかと思い、田坂は不思議に思わずに女と共に歩いた。
長い建物の端まで来て、女はしゃれたドアを開けた。 確かにオーディオルームには明かりがついていた。 この家は靴のまま上がれるので、田坂はプレゼントを持ち替えて中に入った。
長方形の広い部屋は、しんとしていた。 地下のスタジオからはみ出たギターやアンプが隅に並べられ、前来たときより雑然としている。 ひとわたり見回した後、田坂は尋ねた。
「横川は?」
そして振り向いた。
女は、今度はテーブルに体を持ち上げ、ピーターパンのように片膝を曲げて座り、もう片足をぶらんと垂らしていた。 見るからに上等なシルクのストールは、くしゃくしゃに丸まって横に置かれていた。
まず自分の拾ったストールを眺め、それから顔を上げたとき、田坂は目を奪われた。
見えたのは横顔だった。 なだらかな曲線が白い額から形のいい鼻に続き、花びらのような唇までを完璧に描ききっている。 こんなに美しいプロフィールを、田坂は現実の世界では見たことがなかった。
「彫刻みたいだな」
知らずに声が口をついて出た。 自分のこととは思わなかったらしく、女は首を巡らせて不審そうに彼を見た。
「なに?」
「いや」
困って、田坂は言葉を濁した。 真正面から見ると、彼女は絶世の美女というわけではなく、いくらか眼が離れていたし、ウサギのように前歯が大きめだった。
しかし、だからこそ愛らしかった。 破調の美、というべきか、整いすぎの美貌にない生き生きした魅力があった。
「君は誰?」
今度も無意識に口が動き、田坂は彼女に問いかけていた。
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