もうこの見知らぬ女の無礼さには慣れていたので、田坂はむしろ、彼女が一回聞いただけで自分の名前を覚えたのに驚いた。
「君は上から下まで美人だ。 だからこういうことを平気でやるんだろ」
「こういうこと?」
田坂のすぐ横で、女は眠そうに目を細めながら顔を上げた。 瞼に軽くラメを刷いているだけでアイラインは描いていない。 口紅も穏やかなピンクベージュで、個性的な表情をさりげなく引き立てていた。
「見ず知らずの男をからかうこと」
「からかってないですー」
女は楽しげに答えた。
「紳士度チェックしたのよ。 あなたは合格。 トップ当選!」
「選挙に出る気ないよ」
「選挙ね。 出るほうじゃないな。 後ろで仕切るほう。 よく気のつく参謀タイプ」
「今度は性格チェック?」
「あー、ごめん」
珍しく、女は素直にあやまった。
「心を読んだようなこと言って。 ほんとは自分の気持ちもわかんないんだ」
そう言って小さくあくびすると、女は足を止め、田坂に寄りかかった。 さきほどの曲はとっくに終わり、コンポは二曲目のバラードを奏でていた。
「疲れた。 おうちへ帰りたい」
俺もだ――不意に田坂は自分の本心を悟った。 もう何年も前から横川政信には嫌気がさしていた。 顔をつないでいるのは、仕事上有利だからだ。
俺も打算的になったよな、と自嘲しながら、田坂は手帳を取り出して紙を一枚破り取り、走り書きしてプレゼントに挟んだ。
女は首を伸ばして彼の手元を覗きこんだ。
「外せない仕事があるので、贈り物だけ置いていく。 誕生日おめでとう。 田坂」
声を出して読んで、彼女はくすくす笑い出した。
「本名なんだ。 田坂って」
どういう世界に暮らしてるんだ、この子は――田坂が半ばあきれていると、不意に女の表情が変わった。 そして、いきなり彼の手を掴み、庭に出て素早くドアを閉めた。
数秒後、廊下側のドアが開き、男が首を差し込んだ。
「誰かいる?」
コンポは鳴り続けていた。 細面でなかなか美男のその男は、スイッチを消して音を止めると、また呼んだ。
「晴佳さんか?」
田坂は隣りの女の顔を見た。 彼女は唇に人差し指を当て、もう片手で田坂の腕を引いて動かないように合図した。
男はテーブルに載った箱とメモを見つけて納得した様子で、それ以上探さずに電気を消して出ていった。 この人『はるか』っていうのか、と田坂が思っていると、彼女はまた寄りかかってきて、囁き声で言った。
「帰るんでしょ? 送ってって」
行きがかり上しかたがなかった。 田坂はうなずき、くっついてくる女に足を引っ掛けそうになりながら、駐車場へ歩きだした。
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