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あおのロンド 13


 音もなく絹糸のような雨が降る中、車は雛壇式のマンションのゲート前に着いた。
「モンシャトー梅島っていうのよ。 いくらなんでもシャトーは言い過ぎだと思うんだけど、一発で覚えてくれる名前なのはいいわ」
 値段はフランスの片田舎のシャトーぐらいするかもしれないな、と思いつつ、田坂はうなずき、静かに車のドアを開けようとした。
 バッグを開いて中を覗いていた晴佳が、不意に声を上げた。
「やっぱりあった!」
 そして、何気なく顔を上げた田坂に、白い横型封筒を差し出してみせた。
「これね、招待状なの」
「なんの?」
 物に動じない田坂がおとなしく聞き返すと、晴佳はじれったそうに長い髪を後ろに払った。
「エンリコ・エスポジトの。 知ってる?」
「知らない」
「高級ブランドの店。 今度銀座にオープンするから、その前にセレブたちを招待してパーティーをやるの」
「セレブねえ」
「各界のいろんな人たちが呼ばれてて、招かれた人の紹介があればその友達も行けるってわけ。 招待客の全部なんて絶対来やしないから、席を一杯にするための作戦。 宣伝にもなるしね。
どう? 大物たちと顔つなげるチャンスでしょう?」
 手のひらの封筒を、田坂は裏表返して眺めた。
「なんで僕を誘ってくれるわけ?」
「送ってくれたから」
 まだ封筒に眼を据えながら、田坂は迷った。
「そんなところ、何着ていけばいいかわからないし」
「シンデレラみたいなこと言ってる」
 晴佳はストールを羽織りながらくすくす笑った。
「はい、これがお友達紹介カード。 サインしとくわね。 ええと……四枚入ってるわ。 他の人連れてきてもいいわよ」
 そうだ、こういうところに目のない奴が一人いた――彼なら絶対行きたがると田坂には確信があった。 好奇心が強いし、よくも悪くもミーハーだから。 しかも、社交界のTPOにやたら詳しい。 決まりだ!
「ありがとう。 行ければ行くよ、たぶん」
「そうよ、自分を売り込まなくちゃ。 じゃね」
 指二本を唇に当てて投げキスの真似をすると、晴佳はしなやかに体を曲げて車を降り、ゲートの奥に吸い込まれていった。 白いストールが薄暗い扉の前でちらちらと光るのを、田坂はぼんやり見送っていた。

 恋に落ちた自覚は、いつ訪れるのだろう。 晴佳をオーディオルームで見たとき、田坂敦史は目を奪われ、頭がぼうっとなった。 彼女に指をからめ取られたとき、そして曲に合わせて体を動かしていたときも、明け方の夢に出てくる場面のように現実感がなかった。 マリオネットのように操られる自分を、上空からもう一人の自分が眺めている――そんな非現実感が、彼女に出会ってからずっと田坂を取り巻いていた。
 だが、雨に包まれた銀色の闇で、白い指が戯れのキスを贈ってきたとき、彼の心臓には不意に血液が戻ってきてゼリーのように震え、鼓動で押し出された血流が耳元でどくどくと音を立てて鳴った。 表情に乏しいこの顔だが、きっとはた目にもわかるほど青ざめていたにちがいないと、田坂は信じた。
 晴佳のために、彼女にもう一度会いたいために、パーティーに行こうと田坂は決意していた。 日付は十日も先のこと。 あの調子では、彼女に覚えていてもらえるかどうかさえ怪しい。 だが、この招待状を持っていれば、話のきっかけができる。 知り合いの一人に加えてもらえるのだ。
「自分を売り込まなくちゃ、か」
 微苦笑が頬をよぎった。 自分に売り込むほどのものがあるだろうか。 ありきたりの顔をした駆け出しの弁護士で、真面目に仕事を勤めあげていて、それほどの野心もない。 もしかすると今のこの気持ちが、人生最大の野心かもしれなかった。


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