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あおのロンド 15


 堀田宏章〔ほった ひろあき〕が大急ぎで第四スタジオへ入っていったとき、ユラはピアノの前に座って、所在なげにポロンポロンとエンヤの曲の旋律を弾いていた。
「すみません、遅刻しました」
 頭を下げた若者に、ユラはあっさりとした微笑で応じた。
「いいって、五分ぐらい。 レコーディングが思ったより早く終わったから急に来てもらって、こっちこそ悪かったわ」
 それでもできるだけ急いで、宏章は肩にかけた平べったいバッグから楽譜を取り出して、ピアノの上に並べた。
「どうでしょう、こんなんで」
 語尾が小さく消えた。 不安だった。
 じっと手書きの五線譜を眺めていたユラは、スラーを指でたどった後、真顔になって眼を上げた。
「正式に習ってるんだ」
「はあ、一応」
 音大の課題なみにきちんと書きすぎたかな、と、宏章は後悔した。 ポピュラーはシンセでPC採譜してもよかったかもしれない。
「ね、弾いてみて」
「あ、はい」
 椅子を譲られて、あわてて宏章は演奏に入った。 ユラから渡されたのはメロディラインだけだったので、ほぼ自由な発想で伴奏をつけてみたが、気に入られるかどうか、まったく自信はなかった。
 弾き出して間もなく、灰色のブルゾンを着た男がレコーディングルームから出てきて壁に寄りかかり、宏章の演奏に聞き入った。 焦げ茶とグレイに染め分けた髪ともみ上げからつながった髭は、どう見ても自由業だ。 たぶんディレクターだろうと察して、宏章は少し固くなり、指がもつれた。
「あっ、ええと、ここからやり直します」
「いい」
 ユラが断ち切るように言った。 宏章はドンと胸を叩かれたような衝撃を受け、椅子から立ち上がった。
「駄目ですか、やっぱり?」
 とたんにディレクターと思われる男が笑い出した。 むせながら、彼はカニがあぶくを吹いているような声で呼びかけてきた。
「何言ってんの、君。 そこまでで充分わかったってことだよ、君の凄さが」
 ユラは軽く唇を噛み、下だけ突き出すようにした。 すると、すねた子供のようにかわいらしく見えた。
「この人の伴奏じゃ無理だよね」
「ああ、とても」
「でも今……」
 宏章の力ない抗議は無視された。
「目立ちすぎだよね。 私の唄が消えちゃう」
「独奏向きだな。 コンサートホール用の弾き方だ。 な? 将来有望な、そこの青年?」
 曲の評価ではなく、演奏の腕前を褒められているのだとようやく悟って、宏章は内心困ったが、あいまいな微笑を浮かべてごまかした。
 ディレクターは首をひねっていた。
「そんなに舞台向きな派手さがあるのに、なんでデビューしなかった?」
 この質問が一番怖かった。 宏章は無意識にディレクターから視線をそらして、早口で答えた。
「あがり性で、コンクールとか出られなくて」
「もったいない」
 ユラが小声でそっと言った。

 編曲は一発でOKになった。 ほとんど直しもされず、オーケストレーションに回されることとなって、宏章の方が驚いた。
「いっぱいダメ出しされると思ってたんですが」
「どこを?」
 逆に訊き返されてしまった。
「この二小節なんかぞくぞくっと来るよ。 延髄に染みるっちゅうやつだな」
「私はこっちがいい」
 肝心の編曲者そっちのけで、大人二人で盛り上がっていた。


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