帰りがけ、宏章はユラに誘われた。
「『たきやま』に行こ。 和食なんだけど、値段がリーズナブルで、すごくおいしいの」
ちょっとそわそわしながら、それでも宏章は受けることにした。
ユラはマネージャーを伴っていないようだった。
「決まった人がいれば便利なんだろうけど、今のところは事務所の男の子が二人交代でついてきてくれるので充分。 今日みたいなときは自分一人でやれるし」
「バイトですか?」
「まあ、そんなもんね。 ひとりは高校生」
高校生?
「授業の終わった後で?」
「うん、まあ」
ユラはあいまいに笑った。
「ほんとに学校通ってるのか、ちょっとわかんない子だけど、仕事は真面目よ。 ボクシングの三回戦ボーイまで行ったことがあって、腕っぷし強いし」
そう言いながら、ユラは気軽に手を振って流しのタクシーを止めた。 行きもそうして来たらしい。
「D坂の『たきやま』までお願いしまーす」
「はい」
運転手はすぐに応じて、自動ドアを閉めた。
席に腰を沈めると、宏章はもう一度念を押した。
「ほんとにあのアレンジでよかったんですか?」
「うん」
そう答えてから、ユラは編曲部の旋律を低くハミングし出した。 驚いたことに、一度聞いただけで覚えていたらしい。
「ここなんかばっちりよ。 イメージふくらむなあ」
「ありがとうございます」
宏章が小声で返すと、ユラは表情を崩した。
「そういうとこもきちんとしてる。 ねえ、売り出さない?」
「何を?」
「自分自身を」
宏章は自分の膝に目をやり、視野に入った長い指を順番に動かしてみた。
「いや…… ユラさんの曲のアレンジャーになれただけで最高ですよ」
それは本心だった。 ユラのメロディーには誰にも真似できない独創性があり、工夫して伴奏をつけていくのがとても楽しかったのだ。
ユラはぷっと噴き出した。
「よいしょ? いいよ、気つかわなくて」
「違います」
沈黙が流れた。 やがてユラは短い髪を手櫛でかき上げ、自分に言い聞かせるように呟いた。
「もっと欲出したまえ、好青年」
宏章はタクシー代を出そうとしたが、ユラがさっさと払った。 上品な黒い格子が印象的な『たきやま』での食事代も。
「なんか、こんなにしていただくと落ち着きません」
会計を終えて店を出た二人は、表にさりげなく置かれた若竹の植木鉢の背後に立って少し言い争った。
「落ち着きません。 私も」
「え?」
よくわからずに、宏章が驚いた表情を見せると、ユラは両手をさっと動かして、指と指を付き合わせた。
「その上品すぎる言葉遣い、なんとかなんない?」
宏章はたじろいだ。
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