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あおのロンド 19


 マオは、体をねじって自宅の玄関をぼんやり見つめた。 そこはもともと結城誠也が独身時代から住んでいた部屋で、ほとんど嫁入り道具のなかったマオの持ち物は、ひっそりと片隅に置かれていた。 模様替えをしたこともないし、家賃はすべて結城が払っている。
 あんな態度をとられたら、うちに入る勇気が出ない――マオの眼から、光が筋になって廊下に落ちた。 自分が涙を流していることさえ気付かないほど、マオは頭がしびれてしまっていた。
 手が携帯をバッグから引き出した。 距離をおいて、顔を直接見なければ、いくらか冷静に話し合えるかもしれない。 そうだ、電話をかけよう。
 だがなんと、電話はかかったとたんに切れてしまった。

 この仕打ちはあんまりだった。 マオの表情がみるみる強ばり、石のようになった。
 もう涙は出なかった。 その代わり、じわじわと怒りが胸を占領し始めた。 これまでは、意識しなくても夫を立てていた。 九つも年上だし、そつがなくて人生経験が豊富な『井上さん』(マオは結城をこう呼ぶ)を尊敬していた。 だが、こんなに粗末に扱われると……
「大事にしすぎたんだ」
 口をほとんど閉じたまま、マオは唸るようにつぶやいた。
「だからだんだん私のこと、バカにし出したんだ。 親はいないのと同じだし、高校しか出てないし、熱がさめたら嫌いになっちゃったんだ」
 すぐに心臓が引きちぎられるように痛くなった。 もうここにいるのが耐えられなくなって、マオは泳ぐようにエレベーターへ向かった。
 エントランスを出てから、また携帯を手に取った。 ボタンを押す力が残っていない気がしたが、それでもすぐ相手は出てくれて、賑やかに挨拶の嵐が襲ってきた。
「あらー、マオちゃん! あんた元気ー? 当然元気だよね。 うちのヨウちゃんに代役頼んだって聞いたよ。 だのにわたしには連絡なし? ってひがんでたとこ。 うれしーっ! 三日も声聞かないと、わたしさ……」
 何も考えずに、マオは口走った。
「今行っていいですか?」
「ん? 何でも言って。 どうぞどうぞ!」
 行くと言うを勘違いしている。 ライリーはいつもと少しも変わらない。 普段の日常が戻ってきた気がして、ほっと息をついたマオは、再び涙ぐんだ。
「あの、今お宅ですか?」
「そうよ。 なぜ?」
「あの、私が前にいた部屋、まだ空いてますか?」
 すっと風が吹いたように沈黙が走った。 それからライリーの声に緊張が生まれた。
「どうしたの?」
 だが、マオが答える前に急いで遮り、マシンガントークになった。
「いいの。 訊かない。 すぐおいで。 すっ飛んでおいで! 部屋はあるよー。 いくらでも泊めてあげる。 電車賃はある? やだ、もちろんあるよね。 カード持ってるならタクシーでおいで。 いや、電車のほうがやっぱり速いかな」
 まるで実家みたい。 もしかすると実家より歓迎してくれている――暖かいものに包まれたマオは、しわがれた声で答えた。
「ありがとうございます。 すぐ行きます」


 そのころ、結城誠也はホテルにいた。 普段利用する一流のホテルではなく、といって連れ込み用モーテルでもなく、廊下の角がはげ、階段のリノリウムがめくれあがっている、廃業一歩手前のような安宿の一室で、無言のままベッドに横たわり、天井を見つづけていた。


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