「へえ、面白そうじゃん。 行くベーか、ていうより、行きてー」
ハイボールを片手に歩き回りながら電話している兄の市郎〔いちろう〕を、麓郎〔ろくろう〕はソファにもたれたまま、わずらわしそうに目で追った。
「うざいよ。 座れ」
ちょっとワイアレスの子機を耳から離して、市郎は弟を見下ろした。
「おまえも行くんだよ」
「どこへ」
「オープニング・パーティー」
「なんの」
「イタリアのブランド。 ほら、おまえに時計やったろ」
「エスポジト?」
「それだよ!」
小さく吐息をつくと、麓郎はカー雑誌をテーブルに放り出して立ち上がった。
「なんで俺をアクセサリー代わりに連れてくんだよ、いつもいつも」
「いいじゃねーか。 いつも通り小遣いやるから」
「俺、明日から三日連続で講義するの」
「さぼれ」
市郎はこともなげに言った。
「院生の稼ぎなんて爪の垢ぐらいだろ」
「教授ににらまれると論文が通らなくなるんだよ」
「博士号取って製薬会社かなんかに入って、地味に白衣着て顕微鏡とにらめっこか。 だっせーな」
「俺は堅気になりたいんだ。 市みたいな腰の座らない暮らしはやだ!」
ぶっきらぼうに言い放って、麓郎はカウンターに寄りかかり、ウィスキーをグラスにつぎはじめた。 若いのに横顔がざらつき、荒れて見えた。
市郎は弟の意思にかまわず、電話に戻った。
「悪い。 ちょっと相談してた。 うん、行くよ。 服? 俺が選んでやる。 明日会おう。 ええと……四時にMホテルのロビーでな。 いいか? よっしOK」」
先輩弁護士の稲村と吉住、それに秘書の牧田も帰った後の、閑散とした弁護士事務所で、田坂は静かに受話器を置いた。
葉山市郎は大学時代からの友達で、まったく性格が違うのに不思議と気が合い、卒業後もときどき飲みに行ってはバカ話にふける仲だった。 だからお互いに自宅や事務所の電話番号まで知っている。 これが腐れ縁ってやつかな、と田坂は思った。
市郎が何をして食っているのか、親友の田坂さえ知らなかった。 業界紙に情報を提供しているという説もあるし、いや闇で高級品を売りさばいているのだとも言われていたが、真相はわからない。 親は元大会社のオーナー社長だった。 しかし、バブルがはじけたときに会社も倒産し、財産は文字通り泡と消えた。
「あいつも見かけより苦労してるからな」
いつも陽気で、決して落ち込まない市郎は、 肺ガンの父を看取り、当時中坊だった六歳違いの弟を大学院まで進学させたという、別の顔を持っていた。 人にはめったに見せないその素顔のために、田坂は市郎を信頼していたし、たまに法律上の助言をすることもあった。
そのお返しに、市郎は田坂の知らないことを気軽に教えてくれるようになった。 レストランでの注文の仕方、ボーリングの正しい投法、社交界のマナー …… 生まれがよくて社交的な市郎は、野暮な法科生だった田坂には、世の中を渡っていくときのボディガードのような存在となっていた。
「明日服を買って、一週間後か……」
不意に胸がうずいた。 テーブルに身を横たえ、まっすぐに見つめ返してきた美しいひとの、うるんだ大きな瞳が心一杯に広がった。
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