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あおのロンド 21


 芸能事務所に入ったとき、田坂は空気の違いをぴんと感じ取った。
 先日来たときのあたたかい雰囲気が消え、緊張感がただよっている。 それば、パネルの横に置かれたベンジャミンの木がドラセナと代わったことには関係ないようだった。
 秘書兼受付(といっても普通の事務机に座って仕事をしているのだが)の尾関が、訪問者に気付いて立ち上がって歩いてきた。
「どうも。 副社長は十分ほど遅れるそうです。 申し訳ありません。 イベント会場で手違いがありまして」
「それはどうも。 じゃ、こちらで待たせていただきます」
 来客用の椅子にそっと腰を下ろした田坂に、尾関が茶を運んできた。 一礼して口をつけた田坂は、思わずびっくりした表情になった。
「これは……香がいいですね」
「宇治の特選なんですよ。 農園のご主人が副社長のファンで、毎年送ってくださるんです」
「はあ。 いいですね、元大スターは」
「スターじゃないですよ。 ただの出来の悪いアイドルくずれです」
 不意にパネルの陰から声がして、田坂は危うく湯呑みを手からすべり落とすところだった。
 音もなくドアをあけて帰ってきた結城は、コートをフックにかけ、長い足を折り曲げるようにして、田坂の前のスツールに座った。 その顔を見て、田坂はこの事務所にただよう緊張感がここにも現れていると思った。 暗いのだ。 美しさはそのままだが、先日会ったときとは別人のように、結城誠也は表情を失い、近寄りにくい印象があった。
 バッグから数枚の書類を取り出して、結城は田坂に渡した。
「こちらがうちの弁護士に調べてもらった資料です。 うちが加賀見と取り交わした契約には問題はないそうです。 年末ドラマの主役の話は今のところ口約束だけで、正式な書面にはなっていないそうですが」
 田坂はたじたじとなり、息を吸って反撃準備を整えた。
「ご存じと思いますが、芸能界では口約束が重要な位置を占めています。 双方が同意して第三者が証人になるとすると、そう簡単に契約破棄は……」
「破棄とは言っていません」
 結城はゆっくり膝で指を組んだ。
「年末ドラマのマネージメントは大河原興業におまかせしましょう。 なんならうちから貸し出しの形を取っても、共同制作にしてもいいです。 その他、バラエティなどの出演も進めていただいて結構です。 今年一杯の間は。
 いかがですか? 稼ぎ時をお譲りするんですよ。 いい条件だと思いますが」
 結城は別人のように鋭く切り込んできた。 田坂は彼の用意周到さと、意外な芯の固さを感じ取り、表情には出さなかったが相当驚いた。 気配りが良くてそつがない、というのは結城誠也の一面でしかない。 その奥には触れたら低温火傷しそうな氷山が隠れていた。 吸い寄せられるほど美しい眼に、田坂は初めて冷酷な光を感じ取った。
 こういう危うい輝きを目にしたことが、前に一度だけあった。 ある会社の不祥事を円満に済ませるために、葉山市郎の紹介で裏社会の若頭に会ったことがあるが、将来の大幹部と目されているその若者に見返されたとき、田坂はひるんだ。 無表情なのに切り裂くような鋭さのある、なんとも虚無的な目の色だった。
 この結城誠也は危険だ、と田坂は悟った。 出してきた条件は悪くない。 横車を押す癖のある大河原興業でも、この辺で手打ちをするのに文句はないだろう。 心を決めて、田坂はうなずいた。
「わかりました。 ただ、ここには第三者はいませんから、一筆書いていただけるとありがたいんですが」
「ここに」
 もうちゃんと書類にしてあった。 コピーも取ってあるらしい。 確かに結城誠也は俳優よりもビジネスマン向きの性格をしていた。

 待ち時間も入れて半時間で、用件は終わってしまった。 ほっとしたような、割り切れないような気持ちで、田坂は立ち上がった。
「それでは、失礼しました」
 結城もゆっくりと立った。
「話のわかる方でよかったです」
「そうですか?」
 田坂が顔を見ると、結城は薄く笑った。
「前の大河原の代理人は、ドス突き立てていきましたからね。 ほら、そこです」
 彼の指差す椅子の肘掛には、確かに深い傷がついていた。 田坂は思わず早口になった。
「大河原興業はちゃんとした株式会社になりましたし、私も普通の弁護士で……」
「わかってますよ」
 初めて結城の眼が少しなごんだ。


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