田坂が帰った後、副社長室に使っている小部屋に入った結城は、まず書類を整理し、それから机に腰掛けてポケットから携帯を取り出した。
蓋をスライドさせてボタンを押すと、彼は一枚の写真を見つめた。 肩ぐらいの長さの髪を両手で持ちあげるようにして、マオが笑っている写真だった。
そのはにかんだ微笑が、結城の心に突き刺さった。 彼女はこの二日間、マンションに帰ってきていない。 それは昨夜家に戻った結城自身が部屋の様子から確かめた事実だった。
しばらく結城は、シルバーグレイに光るボタンの列を眺めていた。 だが結局もう押すことはなく、そのまま電話機を閉じた。
一方田坂は、仕事が早く片付いたことにほっとして、すぐにクライアントに電話報告してから、葉山市郎との待ち合わせ場所に向かっていた。 Mホテルは家庭的な雰囲気で、田坂も顧客との打ち合わせに使うことがある。 だから行きやすかった。
ドアマンに挨拶して中に入るとすぐ、ダークブラウンの椅子にゆったりと座った市郎が手を上げているのが見えた。 隣りには珍しく麓郎〔ろくろう〕が同席していた。
腕時計を見ると、三時五十二分を指していた。
「お、時間より早いな」
「もめそうだった仕事があっさり終わって」
「そりゃよかった」
「明日詳しく依頼人に報告するが、今日の様子じゃまとまりそうだ」
「じゃ気分よく『タカ●』に行くか」
身軽に立ち上がった市郎に対し、斜めにだらっと伸びて座った麓郎は顔をしかめてなかなか立とうとしなかった。
「お二人でどうぞ」
「何言ってんだよ。 とぐろ巻いてないて立てよ。 おまえさんの服も買うんだから」
「なんで」
退屈でたまらないように、麓郎は眼をつぶった。
「それはおまえが白衣&ボロ普段着しか持ってないからだろ。 こないだみたいに貸衣装で間に合わせられるパーティーじゃねえんだよ」
「じゃ俺連れてくの止めれば?」
「おまえと俺は運命共同体。 看板男を連れてくのは当たり前」
「あーあ」
侘しい声を一つ吐いて、麓郎は老人のようにのろのろ身を起こした。
市郎は合理的だった。 コーディネーターのようにさっさと同伴者たちの服を選ぶと、試着室に追いやって効果を自分たちの眼で確かめさせた。
ミラーの前で、田坂は市郎のセンスを認めないわけにいかなかった。
「う、似合う」
自分で言うのも気恥ずかしかったが、見違えるほどすっきり見えるから仕方がない。 この分だと、もともとハンサムな麓郎はさぞ着栄えがするだろう。 あの子はなぜか洒落たものを着るのが嫌いなんだな、と、田坂は不思議に思った。 ズボンを切ったり髭をはやしたりする、今風の屈折したおしゃれさえ、麓郎は拒否していた。 そして、ありきたりのTシャツかトレーナー、ありきたりすぎるコットンパンツを着つぶしていた。
思ったとおり、苦い表情で試着室から出てきた麓郎は、ぶすっとしたまま服を兄に押しつけた。
「いいよ、これで」
「ほんとにいいのか?」
「もう一度着るなんてうんざりだよ。 早くしようぜ」
「よおし」
値段を知って、田坂は驚きを隠せなかった。
「二万八千円? 全部で?」
「買い物うまいだろ。 服だって高きゃいいってもんじゃないんだ」
「助かる」
田坂は素直に礼を言った。
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