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あおのロンド 29


 翌日の午後から、マオは霧橋ミナという有名タレントについて沖縄へ一週間行くことになっていた。 普段なら長期の仕事は受けないのだが、霧橋とは特別仲がいいし、結城に一方的に仕事をキャンセルされて頭にきていたので、晩秋でも暖かい観光地巡りと聞いて、気分転換にいいかと思い、引き受けたのだった。
 マオはその夜、様々な考えや疑いに悩み、浅い眠りを何度も中断された。 自分の誤解とわかっても、結城誠也は駆けつけてこなかった。 確かにもう真夜中だったが、それでも結婚前なら何を置いても飛んできたはずだ。 しかし、一度電話があっただけで、連絡は途絶えてしまった。
 幸せだと思ってたんだけど――掛け布団の下で、マオは何度目かのため息を漏らした。 マオは本当の家庭を知らない。 養女にいっていた数年間だけは普通の子供らしい生活を送ったが、何か違うんじゃないかという違和感がつきまとっていた。 義理の両親はマオをかわいがってくれたが、どこか芝居じみていた。 腫れ物にさわるように気を遣い、共にいると気持ちが疲れた。
 不思議なことに、ライリーのマンションでは一度もそんな独りぼっち気分になったことがない。 初対面からヨウちゃんと打ち解けたし、騒がしくて不規則な毎日にも、すぐ慣れてしまった。
 無理に形から入ろうとしなかったからだ、と、マオは気づいた。 家庭とは、親子とは、と最初から枠を決めて、その中で安心する人たちもいるだろう。 だがマオは、そういうタイプではないのだった。
 ――井上さん(=結城のこと)もいい夫を演じていたのかもしれない。 それでくたびれちゃったのかも――
 そう考えるのは侘しかった。 だが最悪の事態を予想しておくのがマオの常だった。 そういうこともあるかもしれないと覚悟しておけば、徹底的に打ちのめされることはないのだから。

 205号室の戸浪〔となみ〕氏は、明け方の五時少し前に帰宅した。 バー、スナック、居酒屋とハシゴを重ねたあげく、意識もうろうとなっていた戸浪は、よろめき入る自分のすぐ後ろから、背の高い姿が黒い影のように滑りこむのに全然気付かなかった。
 それにもかかわらず、エレベーターから転がり出たとき、戸浪は壁にへばりついて鯨のように上向きに息を吐いていて、203号室のドアに白い紙袋が引っかけられるところを目撃してしまった。 袋をかけた男はコートの襟を立てて顔を隠すようにしていたので、きっと後ろ暗い奴に違いないと、戸浪は勝手に決めつけた。
 声をかけようとしたそのとき、男はすべるように階段を駆け下りていってしまった。 戸浪は意味もなく、腕を伸ばして指を一本立てた。
「やりー! あのヤロきっとあそこのカマ美容師にホの字なんら。 ありゃ貢物ら! いっただき!」
 そして、よろめきながら紙袋に突進した。
「プレ……プレゼントら」
 通路にあぐらをかいて座りこむと、戸浪はクリスマス・イブの子供のように紙袋を下ろして中身を探った。
「ワイ……ワイ……ワインら〜」
 確かにシャトーマルゴーが奥に入っていたのが不運だった。 酔っ払いは天の恵みだと思いこみ、ご機嫌で袋を掴むと、壁のあちこちにぶつかりながら自分の巣へと持ち去っていった。

 翌日の夜、深く後悔した元酔っ払いの手で、中級品のワインが新しく入った紙袋が、そっとライリー宅のドアにかけられた。 しかし既にマオは沖縄に出発した後だったし、ヨウちゃんとライリーは珍しく早寝していた。 そういう事情で、紙袋は翌朝まで誰にも顧みられることなく、ドアノブにぶらさがったまま置き去りにされた。 


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