霧橋は珍しく怒っていた。 だから友人の結城に、妻のマオを誘ったことを一言も話さなかった。
「世界で一番嫌いなのが横暴な亭主とイカの塩辛なのよ」
一番と言っておきながら二つ挙げて、霧橋は溜め息をついた。
「うちのダンナは稼ぎ少ないけど優しいよ。 ちゃんと話聞いてくれるし」
念を入れて霧橋の髪をカールさせながら、マオは小さくうなずいた。 しかし、胸の中には不安が渦巻いていた。
結城誠也はタレントになる前は長距離トラックを運転していたのだが、その時分は本当にコミュニケーションの取れない性格だった。 殻に閉じこもるどころではない。 鎧を着ていた。
現在のそつのなさ、口当たりのなめらかさは、マオと付き合いだしたために子供時代の素直な気持ちが蘇ってきたことが大きいのは事実だが、半分は演技力だろうとマオは推察していた。
その気になれば、結城はいくらでも本心を隠すことができる。 だがその仮装の下で、心はどんどん固くなり、しぼんでいく。 他人がうらやむものほとんど全てを持っているのに、結城誠也が孤独と人間不信に苦しんでいるのを、マオは誰よりもよく知っていた。
ひとりにしておいて、本当に大丈夫だろうか。 やけになって、他の女にすがったら……
マオの手からブラシが落ちた。 あわてて拾って取りつくろったが、霧橋の目はごまかせなかった。
うつむいた顔を覗きこむようにして、霧橋ミナは尋ねた。
「でももうそろそろいいかな。 電話、かけたげようか?」
不意にマオの大きな眼に涙が浮かんだ。 こんなに親身になってくれるのは、ライリーとヨウちゃんの他はこの有名タレントぐらいた。 人気があるのに奢らず、さりげなく親切な霧橋を、マオは心から尊敬していた。
「ありがとうございます。 午後にかけてみて、通じなかったらお願いできますか?」
霧橋は微笑んだ。
「いいわよ。 来月はマオちゃんのデザイン集が発売されるんだし、その前に心配事をさっさと解決して、気持ちよくキャンペーンしたいよね」
「はい」
マオも懸命に笑顔を作った。
マオが舞台背景と衣装デザインに参加した公演は、今回も評判が上々だった。 特に若い客たちに受けがよくて、霧橋は喜んでいた。
「これで十年はバラドル寿命が延びたわ。 アドバイスありがとね、マオちゃん」
「こちらこそいつも使っていただいて感謝してます。 ちゃんとしたデザイン学校に行ってもいないのに、ありがたいと思ってます」
霧橋は珍しく真面目な顔になった。
「センスってね、ある程度生まれつきのものだと思うんだ。 確かに誰でも磨けば光るけど、普通はそこそこ。 磨く前にまず『珠』でなきゃ一流にはなれない」
自分が一流とは思ったことのないマオは、いささかたじろいだ。
「もっともっとすばらしい作品を見て山のように画を描いて、少しでも向上したいです」
「私も! どっちが進歩が早いか競争しよっか」
笑窪を浮かべて、霧橋はパントマイムの本をバッグから取り出し、振ってみせた。
マチネーと夜公演の間に空いた時間で、マオは結城に電話しようとしてホテルの庭に出た。 棕櫚の木陰にレースのように美しいテーブル・セットが並んでいる。 そっと座って携帯を取り出したが、どうしてもボタンが押せなかった。
画面を見つめているうちに、目が痛くなってきた。 世界一好きな相手は世界一怖い。 嫌われたらどうしようと、いつも思っているからだ。
「かけてきてよ」
マオは小さな画面に頼んだ。
「今度は出るから。 切ったり絶対しないから」
そのとき、声が聞こえた。
「俺も、もう二度とあんな真似はしない。 誓う」
マオは動かなかった。 空耳だと思った。 それでも視線だけ動かして届く範囲を見回すと、棕櫚の斜め後ろに、白っぽい上下を着た結城が立っていた。
ぎこちない表情でマオを見据えたまま、結城は静かに近づいてきた。 歩きながら、一言口から搾り出した。
「ごめん!」
マオは立ち上がった。 白い携帯電話が手から滑り落ちてテーブルに当たったが、気付かなかった。
これまで味わったことのないしびれるような幸福感に包まれて、マオは夫を待った。 そして彼がたどり着いたとたん、腕を高く伸ばして首に固くすがりついた。
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