不意に晴佳が立ち上がった。 そして、取ってつけたような声で田坂に呼びかけた。
「踊る?」
田坂はうろたえた。 確かにムーディーな音楽は流れているが、客は外国人も含めて誰もフロアに出ていなかった。
「でも」
「私を抱いて回ってればいいのよ。 難しくもなんともないわ」
「行けよ」
市郎までがそそのかした。 今にも笑み崩れそうな表情をしている。 この面子の中で、田坂の意外な素顔を知っているのは市郎だけだった。
私を抱いて、というくだりで、田坂は頭に血が上った。 結局それが目当てなのかよ、という自嘲が頭をかすめたが、もう足は勝手に進んでいた。 こんなチャンスはおそらく二度と訪れない。 そしてこれほどまでに夢中になれる人にも、二度とめぐり逢うことはないだろう。 抱きしめてみたかった。 そのとき自分がどうなるか、まったく未知の世界に踏み込んでみたいと、全身で願った。
晴佳はふわっと胸の中に融けこんできた。 なんの抵抗感もなく、これまで田坂が踊ったどのパートナーよりも自然で、市郎が選んでくれた鈍い光沢を放つチャコールグレイのジャケットに、吸いつくようにまつわった。
目立たぬように天井から尾を引いて流したプリーツカーテンの横で踊り始めた二人は、やがて磁力のように人々を引き付け、まずフランス系のカップルが、それから日本人の若夫婦が、というふうに輪を広げていった。
スローダンスはしばらく続き、音楽がフェイドアウトすると自然に終わった。 これが本当にグランド・フィナーレという雰囲気で、主催者側もうれしそうだった。
ゆるやかな拍手の後、田坂が晴佳を見ると、なぜか彼女は表情を固くして斜め横を見つめていた。 晴佳の視線の先には、まだ顔を寄せ合って話に熱中している麓郎と少女の姿があった。
田坂の手はしびれていた。 頭もよく働かず、熱い波が体を駈け抜けるのを何とか理性で押しとどめている瀬戸際だった。
その快感がぷつっと切れた。 あっさり彼を振り切って、晴佳は席に戻っていった。 後に残された田坂は、曲芸の途中で忘れられたアシカのように、ただぼんやりとたたずんでいた。
すぐに肩を叩かれた。 振り向くまでもなく、市郎とわかった。
「帰ろう。 タラシの麓郎も引き連れて」
「あいつ凄腕だな。 ずっと顔くっつけ合って話してる」
「その気になればな」
どこか市郎は心配そうだった。
「参ったな。 あいつが本気になると必ずまずいことになるんだ」
「本気なのか?」
市郎は頬をすぼませた。
「色恋沙汰じゃなくて、たぶん物欲でな」
「ふうん、絵を描くんだ。 油絵?」
「違うの。 テレピン油の匂いがだめで」
「じゃ水彩?」
「そう、透明水彩。 パステルもちょっとやるけど」
「あれで猫を描くと毛のフワフワ感がうまく出るよね」
朱里〔あかり〕は、姉の晴佳より切れ長の瞳をいくらか大きくした。
「パステル画、やるの?」
「まあ、暇つぶし程度には。 あれってすぐ折れるし描き直しがきかないけど、そこがいいんだ。 一発本番って感じで」
「ギャンブラーなのね」
朱里が思いがけないことを言った。 麓郎は微笑した。
「そうかもしれない」
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