田坂は、ほくほくしながらビルを出てきた。 前に取り決めた条件以外に、バラエティとクイズ・ショーの日程をこっそり書類に忍び込ませていたのに、結城は全然気付かなかったのだ。
なんでわずかな間にあんなお祭り男になったんだ? ――秘書やブレイクダンス・チームと笑い興じていて、一緒に踊る真似までした結城を、田坂は宇宙人を見るような目で観察し、これならいくらでもつけこめると判断した。 彼が良心的な弁護士だったからいいようなものの、もし悪徳だったら、ハルバート・プロはその日、大損害をこうむったかもしれなかった。
仕事は大成功だった。 だが、夕暮れの街に出ると、一挙に侘しさが襲ってきた。 元宮晴佳は今頃どこでどうしているだろう。 会いたかった。 遠くから、一目でも。
そうだ! これまで何で気付かなかったんだろう。 葉山に頼めば、晴佳の居場所ぐらいすぐ見つけてくれるはずだ!
田坂は足を早めた。 結城を丸め込んだ仕事をさっさと終わらせて、葉山に電話しよう。 家へ押しかけてもいい。 急げ!
電話で頼むと、市郎はあっけないほどすぐに調べ出してくれた。
「学校時代の友達と、西洋美術館へ行ってるってよ」
「上野の?」
「そう。 リヒテンシュタインの名画コレクションをやってるからって。 さすがお嬢だ」
そして、ついでのように一言付け加えた。
「そうそう、彼女、婚約してるぜ」
田坂は反射的に電話を切った。 そんなことをしても今聞いたことが消えるわけではないが、それ以上話しつづけることが、どうしてもできなかったのだ。
婚約……初めて会った夜、音楽室まで晴佳を探しに来た若い男の姿が、わっと記憶の奥から飛び出してきた。 細面の神経質そうな表情まで、鮮やかに。
たぶん、あいつだ――田坂は頭を振った。 記憶と共に弱気もふるい落とそうとして。
婚約は絶対的なものじゃない。 まだチャンスはある。 そう思った。 どうしても思いたかった。
Θ〜Θ〜Θ〜Θ〜Θ〜Θ
澄んだ青色のガラスを通して、午後の日が弱く中庭を照らしているのが見えた。 晴佳は友達の横川水月〔よこかわ みつき〕と向かい合って丸テーブルに座り、物憂げにラヴェンダー・アイスを口に運んでいた。
今日はフェンディではなくエスプローズのスーツを着ている水月は、よせばいいのにジャムのパイ包みを頼んでしまい、どんどん崩れてくるかけらを持てあましていた。
「これ、どうすくえばいいの?」
「フォークで切ってスプーンに抑えこめばいいのよ」
「あ、なるほど」
口の周りに赤いジャムがついた。
「うわっ、これベトベト」
「ジャムだもん。 当然でしょ」
ティッシュをテーブル越しに渡してやっていた晴佳の視線が、ふと一点に吸いついた。
つられて同じ方角を眺めて、水月が声を立てた。
「あれ? 敦史〔あつし〕さんだ! こんなところで何やってるのかな」
「呼んで訊いてみたら?」
晴佳が感情のない声で提案した。
そこで水月は、中庭に面した窓に向かってにぎやかに手を振った。 すぐ気付いたらしく、田坂は庭からいったん姿を消し、改めてカフェ入口から入ってきた。
椅子の背に反るようにして、水月が陽気に尋ねた。
「久しぶり! 誰かと待ち合わせ?」
晴佳の方を見ないようにしながら、田坂は答えた。
「そうなんだけど、すっぽかされたらしい」
「じゃ、ここ座って」
水月ははしゃいだ。 兄の大学時代からの友人である田坂に、水月は少女の頃、ちょっぴり憧れていた時期があったのだ。
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