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あおのロンド 43


 翌朝の食卓には、兄の佑磨〔ゆうま〕もいた。 きちんとお座りなさいと母に言われても、気ぜわしそうにトーストをかじりながら歩きまわって、スポーツ紙をのぞいたり、観葉植物に水をやったりしていた。
 晴佳を目にすると、佑磨も意外そうな表情になった。
「帰ってたのか」
「そうだ、佑ちゃんに言い忘れてた」
 母がのんびり言った。 佑磨は食べかけのパンを口に押し込むと、晴佳を押すようにして窓辺に行った。
「なんかあったか?」
 晴佳はそっけなく否定した。
「何も。 それより兄さん、毎晩遅いんだって? 杉下さん具合悪いの?」
 さっと佑磨の顔から血の気が引いた。
「いや……」
 それから、鉢にかがみこむ振りをして、晴佳の耳に鋭く囁いた。
「あの患者の話は、うちではしないと約束したろ?」
「誰のことかわからないわよ。 杉下って呼んでるし」
「それでも」
 じれた様子で、佑磨はもぐもぐ言った。
「こっちに持ち込みたくないんだ。 晴佳も普段は忘れてたほうがいい」
「無理」
 短く答えて、晴佳はテーブルに戻り、パンに融けるチーズを載せてオーブントースターに差し入れた。 その唇は、だだっ子のようにぎゅっと噛みしめられていた。


 晴佳は薬剤師の資格を持っていた。 常勤で働きたいのだが、週の半分は鎌倉の自宅に帰って母を助けなければならないし、忙しい兄にも相談相手として頼られているので、毎週二回、ウエミズ・ファーマシーという大規模な薬品店にアドバイザーで行くのが精一杯だった。
 店では髪をアップにして眼鏡をかけていた。 だから外で会うと、同僚でさえ見分けがつかないぐらいで、冗談交じりに、元宮さんて美人だったんだ! と呆れられたことがあった。 自分でも、幾つかの顔を持っているような気がしたが、無愛想なたった一つの顔を使いまわしているだけだという自覚も持っていた。
 いつも通りてきぱきと仕事を終えて処方箋を整理し、店を出たのが九時少し過ぎだった。 珍しくひとりになりたくない気分なのに、そういう晩に限って誘いがなかった。 店でわりと仲のいい吉沢明子〔よしざわ めいこ〕は週末旅行の準備だし、たまに飲みに行く松田素実〔まつだ もとみ〕は夫の迎えでいそいそ帰ってしまった。
 婚約者の石垣は、新薬の調査でヨーロッパへ出張中だ。 心のどこかでそのことにほっとしている自分に、晴佳は不安を隠せなかった。
 誰かと話したい。 他愛ないことでいいから、声を聞いてほっとしたい。 晴佳は大通りの舗道を歩きながら、携帯電話を取り出して名前を探した。
 珍しく、ユラがヒットした。
「はい? 晴佳?」
「そう」
 息切れしたような声で、晴佳は答えた。
「ちょっと時間ある?」
「えっとね、十一時まで大丈夫」
 そこで少し間を置いて、
「もう一人連れてっていい?」
「いいわよ、何人でも」
 ほっとして力が抜けた。 いつも気を張っている分、切実に人が恋しくなるときもある。
「《オンショアー》、行ける?」
「行く」
 電車通勤の晴佳は、首を伸ばしてタクシーを捜し始めた。


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