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あおのロンド 44


 代々木にある『オンショアー』は小さなバーで、家庭的な雰囲気があり、ユラと晴佳にはお気にいりの店だった。
 細い階段を下りて黒いドアを開けると、もうユラが来ていて、カウンターから手を振った。 横にいた青年も首を晴佳に向け、軽く一礼した。
 誰だったっけ――あまり男の顔に興味のない晴佳は、前に一度しか見たことのない宏章を思い出せなかった。 だが宏章のほうは挨拶の愛想笑いを消した後も、真顔でじっと、近づいてくる晴佳の姿を見つめていた。
 ユラはマティーニ・オン・ザ・ロックスのグラスを振りかざして歓迎した。
「おいでませ〜! さあカモンカモン、ここに座らっしゃい」
 酔っているにしても、普段よりはしゃいでいる印象があった。 晴佳はゆっくりユラの隣りに腰を掛け、眼鏡を取ってケースにしまった。
「私はアプリコット・クーラー」
 バーテンはうなずき、シェーカーを取り出した。 ユラは晴佳の肩に寄りかかるようにして尋ねた。
「寂しそうだねー」
 ユラは高校時代から人の心を察するのがうまい。 隠し事は難しかった。
 さっと目の前に置かれたグラスを見つめながら、晴佳はぽつりと言った。
「マリッジブルーかもね」
「あんたのは違うよ」
 どきっとするほどの率直な答えが返ってきた。
「晴佳はもともと結婚したくないんだよ」
 もう否定する気力がなかった。 晴佳は持ち上げたトールグラスでライトを透かし見た。
「ばればれだったか」
「石垣さんはいつも晴佳を追いかけてた。 学生のころからそうだった。 だからって、つい同情してどうなるの。 結婚って現実だよ。 合わない相手と一緒になって……」
 あやうくユラが自分の私生活を暴露しそうになったので、晴佳は素早く言葉を挟んだ。
「わかりました、耳年増さん。 いっそ『卒業』みたいなの、いいかもね。 式の途中で恋人が駆けつけて、花嫁をさらって逃げちゃうの」
「僕がその役目、引き受けましょうか」

 思わぬところから声が割り込んできた。 晴佳は初めて、ユラの隣りで静かにマンハッタンを飲んでいた青年に注目した。 それまで壁紙の一部ぐらいにしか思っていなかったのが、不意に生身の人間として浮かびあがった。
 青年は、顎の引き締まった上品な顔をほころばせた。
「いや、芝居でってことですよ。 そのまま外国へ行って、ほとぼりのさめた頃に戻ってくればいいんです。
 家柄の釣り合いとか家庭の事情とか、いろいろあるんでしょうが、これから何十年も一緒に暮らすのに、式の前から駆け落ちを考えてるのは普通じゃないと思うな」
 知ったようなことを――晴佳の口が一文字になった。
「おねえさんにお説教?」
「いや」
 青年はたじろがなかった。
「人生を無駄にしてほしくないんです。 僕の兄みたいに」
 お兄さん? 兄という言葉にどきっとして晴佳のグラスが大きく揺れ、しぶきが袖にかかった。
「おうおう、気つけて」
 ユラが危なっかしい手つきでティッシュを出してきた。 青年はグラスをカウンターに置き、不思議なほど淡々と話し出した。
「兄は画家で、繊細な性質でした。 モデルになった学校の後輩と両思いになったんですが、彼女の友達を車で送っていく途中に事故を起こして、その人は腰に大怪我を負い、杖がないと歩けなくなったんです。
 責任を感じた兄は、後輩と別れて彼女と結婚することを決めました。 でもどんどん落ちこんで、式の四日前に姿を消してしまったんです」
 晴佳よりも、ユラのほうがびっくりして目を見張った。
「それで? お兄さんはそれからどうなったん?」
「わかりません」
 宏章は晴佳の無表情な顔からグラスに視線を戻した。
「それっきりなんです」


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