表紙
表紙目次文頭前頁次頁

あおのロンド 47


「そんなことより、これからどうするか考えましょう。 この人の身元がやっとわかったんだから」
 晴佳はバッグから手帳を出して、一枚紙を破り、すばやく書いた。
「堀田久典〔ほった ひさのり〕…… そういう名前なのか」
「ええ、写真の裏に書いてあったわ。 画家だそうよ」
「ともかく、この状態の彼を家族に見せるわけにはいかないな。 いくら身元不明だったにしても、これまで警察にも届けずに何してたんだと言われるに決まってる」
「看護してたのよ」
 疲れた口調で、晴佳は呟いた。
「できる限りの治療をして、意識を戻そうとしていた。 あれが飛び込み自殺だったら、兄さんには非難されるようなことは全然なかったのよ」
「でも、誰がそれを証明してくれる?」
 無意識に声が大きくなった。 ふたりはじっと顔を見合わせた。
「あの場にいたのは」
「そう、俺たちと、石垣」
「石垣さんは私たちの味方よ」
「まあ……な」
「証言してくれるわよ。 してもらう!」
「晴佳!」
「大丈夫。 兄さんは心配しないで」
 気力をふりしぼって、晴佳は兄の背中を明るく叩いた。
「私に任せて。 石垣さんは明日の夜ヨーロッパから戻ってくるの。 だから来週にでも、堀田宏章さんと彼をここに連れてくるわ」
「でも」
「誠実に説明しましょう。 そして示談に応じてもらうの。 なんとかしてわかってもらう。 それがこの病院に傷をつけないただ一つの道だから」
「その、堀田宏章っていう男次第だな」
 佑磨は使い古した雑巾のようになって、ぐったりと壁に額をつけた。


 翌日は朝からどんよりと雲が低く、昼過ぎから本格的な雨になった。 田坂は顧問をしている倉庫会社の呼び出しを受けて十時に出かけ、一時前にズボンの裾をずぶ濡れにして事務所に帰って来た。
「よう。 これから昼飯食いに行くんだが、どうだい、一緒に?」
 ドアのところでばったり会った先輩の稲村〔いなむら〕に声をかけられて、田坂はちょっと顔をほころばせた。
「いや、さっき済ませてしまったんで」
「なんだ、早いな」
「すみません」
 本当のことを言うと、まだ食べていなかった。 なんだか食欲が湧かないのだ。
稲村はまだ立ち止まって、話し足りなそうにぐずぐずしていた。
「なあ、田坂くん」
「はい?」
「ちょっと耳寄りな話があるんだよ」 


「やっぱり男も三十過ぎると」
 いかん、まだ三十そこそこで愚痴は早い。 そう気を引き立てて、田坂は事務所に入った。 この弁護士事務所に所属する三人が分担して給料を払っている沼口〔ぬまぐち〕という四十代の有能な秘書が、きびきびと報告した。
「有沢物産から十一時十二分に電話がありました。 パソコンのほうにメールを送ったそうです。 その確認に」
「わかりました。 そう言えば朝チェックするの忘れてました」
 おや? という表情で、沼口は眼鏡を持ち上げた。 田坂が仕事の手順をおろそかにするのは、とても珍しいことだったのだ。
 頭が重い、と感じながら、田坂は自分の部屋に入った。 そして、パソコンに電源を入れようとしたとき、電話が鳴った。
 入っていたのはメールだった。 差出人を見て、田坂の表情が固まった。
 元宮晴佳……?


表紙 目次前頁次頁
Copyright © jiris.All Rights Reserved