メールの内容は、こうだった。
『今日の夕方、時間ありますか? 私は九時まで空いてます。。。 晴佳』
彼女らしい。 そっけなくて強引なようでいて、彼の都合を一応考えていた。
不意に喉元まで熱いものがこみ上げてきて、田坂はあわてて口を押さえた。 泣きそうになるなんて、もう十年も覚えのない感覚だった。
一応電話番号を交換したものの、二度と連絡などないだろうと思っていた。 それでもこっそりとでいいから姿を見たくて、また葉山市郎に頼もうかと悩んでいた矢先だった。
小さな画面に目を近寄せて、田坂は大急ぎで返信を打った。 気まぐれな晴佳の心が変わらないうちに。
『今から行きます。 どこで会いますか? 田坂』
晴佳の答えは短かった。
『車で迎えに行きます 晴佳』
田坂は落ち着きを失い、何度も窓から下の路を覗いて、車が来ないか確かめた。 緑色のルーフが見えるまでの二十分が、一時間にも感じられた。
晴佳の車が速度を落として回りこんでくるのをちらっと目にしたとたん、田坂はバッグを掴んで部屋から出た。 デスクで予定の整理をしていたらしい秘書の沼口が、顔を上げてきびきびと声をかけた。
「どちらへ?」
「友達とちょっと」
我ながら怪しげな言い訳だと気付いたときには遅かった。 沼口は笑いになりきらない複雑な表情で、いくらか思わせぶりに言った。
「ごゆっくり」
雨は小降りになっていたが、傘をささずに車へ向かった田坂の肩は濡れてしまった。
頭を下げて横の座席に滑り込んだ田坂に、クリーム色のカーディガン・スーツを着て驚くほど清楚に見える晴佳が言った。
「ホテルでいい?」
田坂は、うなずくしかなかった。 なんという情緒のない言い方かと思ったが、そう仄めかしてまた空気を台無しにするのが恐ろしかった。
小さな、裏通りのホテルだった。 雨の降る薄ら寒い午後に、肩をすぼめて中へ入ると、わびしい外国映画のワンシーンのようで、田坂は後ろめたく、落ち着かなかった。
晴佳は堂々としたものだった。 偽名を書いてね、と車の中で言われていたので、田坂は森田和義と書いた。 すると晴佳は下に雅美と書き添えた。
胸までカバーリングを引き上げると、晴佳はベッドヘッドに背中をもたせかけて座り、バッグからサンドイッチを出してきて、膝に置いた。
「おやつ代わりに、半分どう?」
空腹を感じはじめていたところだったので、田坂は遠慮なく貰うことにした。
小ぶりのサンドにはハムやスクランブルエッグ、ルバーブなどがはさんであって美味しかった。 浅いランチボックスにきちんと収められているところは、どう見ても手作りだ。 晴佳はコーヒーの缶まで用意していて、二人の間にポンと置いた。
「なんだかピクニックみたいだな」
田坂が言葉を選びながらぽつぽつと言うと、晴佳はベッドの上で膝を立てて、両手で抱えた。
「ここの食事は食べたくなかったから。 田坂さんって好き嫌いがないみたいね」
そう言えばピーナツバターからトマトの薄切りまでまんべんなく食べていた。 大して好きではないものもあったが、万一晴佳自身が作ってきたサンドイッチならと思うと、かけらも文句は言えなかった。
ささやかに楽しかった。 その前の抱き合っていた時間よりも、むしろ晴佳を近くに感じた。
曲げた膝に肘をつき、晴佳は次第に暗くなっていく窓のほうを見やった。 そして、いつも通りの口調で言った。
「短いお付き合いだったわね」
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