石垣が挨拶に行くと言ってきかなかったので、二人は鎌倉にある晴佳の実家を目指した。
「ただいま」
「お邪魔します」
二人の声が交差して響いた玄関に、男物の靴がきちんと揃えて置いてあった。 石垣は目ざとくそのスニーカーを見つけ、眉を寄せた。
「若い子向きの靴だ。 お兄さんじゃないね」
「誰かしら」
晴佳には思い当たらなかった。
奥から母親の幸世〔ゆきよ〕が出てきた。
「おかえり。 いらっしゃい、石垣さん」
「さっきロンドンから帰ってきました。 うちに戻るより先にご挨拶したくて」
そつのない口調で言う石垣に、幸世はあけっぴろげな笑顔を見せた。
「いつも気を遣っていただいて。 最近の若い方ってバブルの頃よりずっと礼儀正しくなってるわね」
「この靴の持ち主もですか?」
冗談めかして石垣が問うと、幸世はひょいとスニーカーを覗いてうなずいた。
「ええ、とてもしっかりした人ですよ。 朱里〔あかり〕を尋ねて見えたの」
石垣はあからさまにほっとした表情を見せたが、反対に晴佳の顔は緊張した。
「その人、葉山さんって言った?」
「ええ、確か」
相変わらず大ざっぱな母は、名前をよく思い出せないようだった。
「朱里大喜びだったわよ。 珍しく杖ついて自分で出迎えて」
「私ちょっと見てくる」
「よしなさい」
石垣が、もう夫のような言い方で引き止めた。
「朱里ちゃんだって子供じゃないんだ。 ボーイフレンドがいてよかったじゃないか」
かすかな苛立ちの色が、晴佳の眼に浮かんだ。 だがすぐに拭い取ったように消え、晴佳は脱いだ靴を脇へ寄せると、石垣と並んで和室のほうへ入っていった。
ベランダにあるゆったりした椅子に腰かけて、朱里は庭園灯の影が大きな蛍のように光る水面を見ていた。
「そろそろ寒くない?」
手すりにもたれて月が昇ってくるのを眺めていた麓郎〔ろくろう〕が尋ねた。 朱里はその言葉を聞いて、急いで立ち上がろうとして、杖を倒してしまった。
素早く麓郎が拾い上げた。
「これってヤワだな。 僕が杖になるよ。 つかまって」
「悪いわ」
朱里は上気した顔でためらった。
「なんで! ほら、こうして肩につかまれば歩きやすいよ」
そう言っている間に麓郎の腕は朱里の背中に回り、上手に椅子から起こして敷居を越えさせた。
「高校のときにスキーで脚折ったことあるんだ。 だから気持ち少しはわかるよ。
骨折したことある?」
「ううん」
「太腿を折ると大変なんだ。 ギプスの中が鬼みたいにかゆくなっちゃって。 手が入んないから針金ハンガー伸ばして突っこんでごしごし」
麓郎は思い出して笑った。 健康な歯が光るのを、朱里はぼんやりと見上げていた。
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