「晴佳。 晴佳!」
だんだん呼びかける声が鋭くなって、晴佳ははっと意識を横の男性に戻した。
「なに?」
苛立ちを隠せずに、石垣はライターをテーブルに投げ出した。
「君っていつも上の空なんだな」
医者の子で衛生には厳しい晴佳は、煙草が嫌いだ。 だが石垣は、吸っていいかと聞きもしないでメントールを取り出し、火をつけた。
「いろいろ考えなきゃならないことがあって」
そこで晴佳は、心にわだかまっていたことに決着をつけようとした。
「あのね、杉下さんのことなんだけど」
「だれ?」
石垣は忘れている。 晴佳の口元が締まって、小さな皺ができた。
「患者さん。 意識不明の」
「ああ……」
灰皿に煙草を置いて、石垣は晴佳の視線を受け止めた。
「それで?」
「身元がわかったの。 まだ確認はしてないけど」
「えっ?」
さすがに驚いたらしく、彼は座りなおした。
「どこの誰?」
「画家で、堀田久典という名前」
煙草に勢いよく手を伸ばし、石垣は煙を二度も吹き散らした。 落ち着きがなくなっていた。
「へえ」
「それで……」
改めてお願いが、と言いかけたとき、お茶菓子を持って母が入ってきた。 タイミングの悪さに、晴佳はがっかりした。
だが、母に空気を読めというほうが無理なのはわかっていた。 お嬢様育ちで、よく言えば天真爛漫、呑気で気立てがいいのが取りえの人なのだ。 病院経営のやりくりや複雑な人間関係を相談しても、頭が痛くなると言って逃げ出すだけだった。
気を取り直して、晴佳は訊いてみた。
「朱里の部屋にも持っていった?」
「ええ。 ふたりでトランプやってたわよ。 朱里とっても楽しそうだった」
「そう」
胸騒ぎがした。 だが朱里の短い人生をいくらかでも明るくできるなら、少々の危険は目をつぶるべきかとも思え、晴佳は動揺を押し隠した。
初めての訪問であまり長居しては信用されないことを、麓郎は知っていた。 だから壁の時計が小鳥のさえずりで七時を告げたときに、思い切りよく立ち上がった。
「あ、もう四時間もお邪魔しちゃった。 今日はこれで帰るね」
朱里は一瞬言葉をつまらせたが、すぐうなずいた。
「ええ」
ふわっと体を倒して耳元に口を寄せ、麓郎はささやいた。
「楽しかった。 すっごく」
朱里の頬に、ぎこちない微笑が浮かんだ。
「うん、私も」
「また会おうね」
「電話してね」
「する! 君からもかけて。 いつでも都合つけるから」
朱里は眼を伏せた。 睫毛の影が、アイシャドウのにじみに似て見えた。
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