こんなとき、酒が飲めればいいんだが、と田坂は騒音の溢れる工場に入りながら思った。
この『高石ファクトリー』は、田坂が駆け出しの頃初めて一人で土地の賃貸借問題を解決した、いわば原点となるクライアントだった。 そのときからずっと顧問を引き受けて、もう八年になる。 今でもここの機械の音を聞くと、がむしゃらだった若い自分が懐かしく思い出された。
今日の相談は特許に関することだった。 東北に本部を置く大企業が、高石の技術と一部重なる特許を申請していて、譲れと圧力をかけてきたのだ。
落ち込むだけ落ち込んでいるこんな際でも、田坂は手を抜くことなく、逆にのめりこむようにして隅々まで書類を調べ、友人の弁理士に相談し、高石側に有利な証拠を揃えた。 それで相手もゴリ押しできなくなり、重複する特許を独占的に買い上げるという提案が来て、今日はその打ち合わせだった。
「助かるわ。 ほんと助かる」
首にかけたタオルでこめかみを拭きながら、高石社長は嘆息した。 ありふれた下町の工場長に見えるが、実は世界でも有名な超絶技巧の持ち主で、カバーと名のつくものならボタン電池から大型ジェット機までミクロ単位の精確さで作り上げるという、大変な大物だった。
「田坂さんがいなかったら、何億損したかわからん。 こっちは技術磨きに忙しくて、法律にかまってる暇なんかないんだから」
「そうですね」
努力して、田坂は微笑んだ。 上機嫌の高石社長は近所の中華料理店に誘おうとしたが、田坂は断った。
「すみません。 ちょっと胃を痛めてて」
「だから顔色が悪いんですか。 気つけなさいよ。 仕事は楽しくやらにゃ」
自分だってそうもいかないだろうに、高石は豪快に笑い、また顔を拭いた。
外に出て見上げると、空が突き抜けるように広がっていた。 秋特有の澄んだ大気が眼の届く限り広がり、せせこましい都会にひとときの安らぎを与えていた。
シスコの空はいつもこんなかな、と、田坂は思った。 アメリカの西海岸は砂漠に近く、ほとんど雨が降らないそうだ。
これからは国際企業の弁護士団にどう入り込むかが生き残りの道だ、と、田坂は先輩に何度も言われていた。 たしかに弁護士は紛争の立役者だ。 多国籍企業に雇われたければ、欧米の法律を勉強しておく必要がある。 それにはやはり身軽な若いうちがいい。
車に乗り込んでも、しばらく田坂は動かなかった。 座席にもたれたまま前方に視線を置いていると、次第に焦点がぼやけ、街が二重ににじんで見えた。
「行くか、アメリカに」
小さく言葉が忍び出た。 決断した、というにはあまりにも頼りない声だったが、口にしたことで心がはっきりと決まった。
ファーマシーで、客の持ってきた処方箋を見ながら薬をガラス棚から取り出していた晴佳は、ポケットに無造作に入れた電話が鈍い音を立てながら揺れるので、眉をしかめた。
仕事中は切っていたつもりだった。 やはり心のどこかが空白になって、集中力が続かないのだろう。 やむなく体で隠すようにして、ちらっと覗いて相手を確かめた。
メールを送ってきたのは兄だった。 その内容を流し読みしたとたん、晴佳は電話を落としそうになった。
「うそっ……」
「え? どうした?」
同僚の佐藤が顔を向けた。 その横を素早くすりぬけながら、晴佳は途切れ途切れに言い残した。
「ごめん。 大変なことが……人の命にかかわるの。 すぐ帰らせて。 埋め合わせはするから」
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