反射的に宏章の本音が出た。
「案内って、そんなことできるんですか?」
「できます。 久典さんは生きてますから」
ひび割れた笛のような音が、電話の向こうから伝わってきて、晴佳ははっとなった。 宏章はきっと、兄が死んだものと諦めていたのだ。 それが思いがけなく生きていると知らされて、心に張っていたバリアが崩れ落ちた。
かすかな泣き声を聞きながら、晴佳は眼をつぶった。 自分も胸の底からこみ上げてくるものがあった。
総合病院の門の横で待っていると、紺色のタクシーが停まって、中から転がり落ちるように宏章が出てきた。 晴佳は大急ぎで道に進み出た。
「こっちです」
ぽつんぽつんと灯りのともった庭を、二人は空気をなぎ倒すような勢いで歩いた。
ほとんど小走りになりながら、晴佳は低く硬い声で事故当日の説明をした。
「あの日は、兄と私と、兄の友達の石垣さんの三人で、私の車に乗って帰るところだったんです。
私と石垣さんはお酒を飲んでいたので、飲めない兄が運転してました。 まっすぐの道で、兄はちょっと油断してたんでしょう。 携帯で撮った愉快な写真があるからって言って、取り出そうとしました。 そのとき、不意に衝撃があって車が揺れて」
宏章は無言で唇を噛んだ。 晴佳は緊張を隠せない表情で続けた。
「兄は医者ですから、すぐ車を停めて、はねてしまった男性を診たんです。 外傷はないけれど意識がなくて……」
そこで初めて、晴佳は言いよどんだ。
「すぐ警察に届けるべきでした。 でも、兄はパニック状態だし」
それに石垣が、口をすっぱくして兄妹を説得した。 大変なスキャンダルになるから、隠し通したほうがいいと。
晴佳の表情が辛そうに歪んだ。
「示談にしたいと、思ってしまったんです。 回復すれば話し合いができるだろうと」
別館が見えてきた。 まっすぐ前方に眼を据えたまま、宏章が押さえた声で尋ねた。
「じゃ、なぜ一ヶ月以上も兄を隠していたんですか?」
「戻らなかったんです、意識が!」
晴佳は小声ながら叫んでしまった。 たまらなかった。 あの夕刻の判断ミスが、これほどの波紋を呼ぶとは、誰が予想しただろう。
病室の前に、ひょろっと背の高い白衣の男が立っていた。 晴佳を引き伸ばして、落ち着きと自信を抜き取った感じだ。 宏章にはすぐ、これが彼女の兄だと見当がついた。
佑磨〔ゆうま〕は。妹が連れてきた青年を一目見たとたん、体を大きく震わせた。 宏章にも兄の久典の面影が色濃く映っていたのだ。
「晴佳」
心細そうにつぶやく佑磨に、晴佳がはっきりと言った。
「この人が弟さん。 堀田宏章さんよ」
「どうも、この度は」
佑磨の語尾がかぼそくなった。 彼がぎこちなく詫びようとするのを遮って、宏章は鋭く訊いた。
「兄は? どこですか? 会わせてください!」
大急ぎで、佑磨は扉を開いた。 前のめりになって中に入った宏章は、ガラス越しにベッドを見て、いもりのように両手でガラス面に張りついてしまった。
「兄さん……兄さん!」
ベッドの上では、男がゆらゆらと首を動かしていた。 視線がまだ充分に定まっていないが、それでも誰が来たか見分けたらしく、奇妙な細い声が伝わってきた。
「ひ、宏章?」
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