表紙
表紙目次文頭前頁次頁

あおのロンド 55


 ガラスに鼻先を押しつけた宏章の顔が、融けたように歪んだ。 一刻も早く中へ入りたいのに、脚が震えて動けないようだった。
「兄さん……生きてたんだね……これ、現実なんだよね……」
「あのなあ」
 まだ喉の調節がうまくできないらしく、久典の声はところどころ裏返った。
「聞こえてたんだ。 しばらく前から周りの音が少しずつ耳に入ってきて」
 驚いて、晴佳は兄の顔を見上げた。
「知ってた?」
「いや」
と呟きながら、佑磨は妹の肩に手を置いた。 冷たい手から、間欠的な震えが伝わってきた。
「なんとか声を出そうとしたんだけど、なかなか眼も開けられなくて」
 そう呟いて久典は、途方に暮れた子供のように眼をパチパチさせた。
「疲れた」
 とたんに宏章がしゃんとなった。 急いで病室に入ると、兄の頭を支えて枕を直してやった。
「どう? これで具合いい?」
「うん、ありがとう」
 弟の顔を見、体温を感じて安心したように、久典は目を閉じた。
「チェコから帰ってきたのか?」
「そう、休暇でね」
「しばらくいてくれるか?」
「ああ、そばにいるよ」
「悪いな」
 声が次第に小さくなった。
「こんな兄貴で本当に悪い」
「自分を責めるなって」
「何やっても駄目だ。 ちゃんと死ぬこともできなかった」
 宏章の唇がわなわなと震えた。 こめかみに血管が盛り上がったので、兄を怒鳴りつけるかと晴佳がはらはらしたが、宏章は自分を抑えて、こう答えた。
「生きていてよかった。 今はそれだけしか言えない。 生きていてくれて、よかった!」


 五分もしないうちに、久典は深い眠りに入った。 肉親が来て緊張がほぐれたのだろう。
 残った三人は、病室を出て、控え室の小さなテーブルを囲んで座った。
 重い沈黙を最初に破ったのは、晴佳だった。
「チェコに滞在なさってたんですか?」
 緊張のほぐれない顔で、宏章はうなずいた。
「ええ。 あっちでコンサート・ピアニストをしています」
 プロ中のプロじゃないか! 演奏が華やかで魅力的なのは当たり前だった。
「それがレストランのアルバイトを?」
 思わず皮肉まじりの声音になった。 宏章は顔を上げて、じっと晴佳を見つめた。
「あそこが晴佳さんの行きつけの店だと聞いたので」


表紙 目次前頁次頁
Copyright © jiris.All Rights Reserved