ガラスに鼻先を押しつけた宏章の顔が、融けたように歪んだ。 一刻も早く中へ入りたいのに、脚が震えて動けないようだった。
「兄さん……生きてたんだね……これ、現実なんだよね……」
「あのなあ」
まだ喉の調節がうまくできないらしく、久典の声はところどころ裏返った。
「聞こえてたんだ。 しばらく前から周りの音が少しずつ耳に入ってきて」
驚いて、晴佳は兄の顔を見上げた。
「知ってた?」
「いや」
と呟きながら、佑磨は妹の肩に手を置いた。 冷たい手から、間欠的な震えが伝わってきた。
「なんとか声を出そうとしたんだけど、なかなか眼も開けられなくて」
そう呟いて久典は、途方に暮れた子供のように眼をパチパチさせた。
「疲れた」
とたんに宏章がしゃんとなった。 急いで病室に入ると、兄の頭を支えて枕を直してやった。
「どう? これで具合いい?」
「うん、ありがとう」
弟の顔を見、体温を感じて安心したように、久典は目を閉じた。
「チェコから帰ってきたのか?」
「そう、休暇でね」
「しばらくいてくれるか?」
「ああ、そばにいるよ」
「悪いな」
声が次第に小さくなった。
「こんな兄貴で本当に悪い」
「自分を責めるなって」
「何やっても駄目だ。 ちゃんと死ぬこともできなかった」
宏章の唇がわなわなと震えた。 こめかみに血管が盛り上がったので、兄を怒鳴りつけるかと晴佳がはらはらしたが、宏章は自分を抑えて、こう答えた。
「生きていてよかった。 今はそれだけしか言えない。 生きていてくれて、よかった!」
五分もしないうちに、久典は深い眠りに入った。 肉親が来て緊張がほぐれたのだろう。
残った三人は、病室を出て、控え室の小さなテーブルを囲んで座った。
重い沈黙を最初に破ったのは、晴佳だった。
「チェコに滞在なさってたんですか?」
緊張のほぐれない顔で、宏章はうなずいた。
「ええ。 あっちでコンサート・ピアニストをしています」
プロ中のプロじゃないか! 演奏が華やかで魅力的なのは当たり前だった。
「それがレストランのアルバイトを?」
思わず皮肉まじりの声音になった。 宏章は顔を上げて、じっと晴佳を見つめた。
「あそこが晴佳さんの行きつけの店だと聞いたので」
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