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あおのロンド 56


 やはり宏章の目的は自分に近づくことだった、と晴佳は悟った。
「そのためにユラと親しくなってまで?」
 宏章の視線が揺れた。
「あれは……あの人の曲を弾いて、ちょっとお近づきになりたかっただけなんです」
 それが思いがけず気に入られてしまったことで、宏章は当惑していたのかもしれなかった。
 晴佳は疲れた心を必死で奮い立たせた。 この微妙なときに、こんな話題を続けて宏章の機嫌を損ねるわけにはいかない。 兄を見て目でうながすと、佑磨は姿勢を正して、できるだけきちんと説明しようと努力した。
「事故を公表しなかったのは私たちの落ち度です。 本当に申し訳ありません。
 ただ、スキャンでも内臓および頭腔内に異状が見られなかったので、すぐ意識が回復して事情を聞けると判断してしまったんです。 まったく身元がわかりませんでしたから、患者さんのご家族に知らせることもできず」
「異状がないんですか? それじゃなぜ意識がなかったんでしょうか」
 宏章の問いに、佑磨は口の奥で答えた。
「さっきの患者さんの言葉で判断すると、負傷が原因で動けなかったのではなく、声を出す気力が失われていたのではないかと」
「気持ちの問題だったって言うんですか?」
 思わず宏章の声が高くなった。
「死にたかったのに死ねなかったから、生きた屍みたいになったと?」
「ええ」
「そんな!」
 立ち上がろうとした宏章を、晴佳が穏やかに引き止めた。
「今意識が戻ったばかりですから、明日まで休ませてあげた方がいいです」 
 佑磨も急いで言葉を続けた。
「久典さんが落ち着かれたら再検査をします。 一ヶ月以上寝たきりだったので、すぐには歩けないでしょうが、意識や言語の障害はないようですし、リハビリがすめば健康になって御宅へ戻れると思います」
 またゆっくり椅子に体を戻すと、宏章は腕で頭を抱えこんだ。
「なんかごちゃごちゃになって、考えがまとまらないです」
「できるだけのことをしました」
 晴佳は心から訴えた。
「お兄様を見てください。 床ずれ一つありません。 事故を報告しなかったのは何度でもお詫びします。 ただ、うちの病院が代替わりでごたついていて、その上悪い評判が立って経営難になるのが恐ろしかったんです。
 勝手なお願いですが、この事故を警察へ届けないでいただけないでしょうか?
 もちろん治療費はすべてこちらが負担しますし、ご家族にご心配をかけた償いはさせていただきます。 ですからどうか」
「波風を立てないでくれ、ですか?」
 ふっと顔から手を離すと、宏章はそっけなく尋ねた。
「今はどうしたらいいかわかりません。 母に知らせたいし、ゆっくり落ち着いて考えてみたいんです。 明日まで待ってもらえますか?」
 あせった表情の佑磨を押しとどめて、晴佳は静かに答えた。
「もちろんです。 ただ、他のどなたにも話さないでいただけたら、心から感謝します。 黙っていてもらえますか?」
 辛そうな顔で、宏章は席を立った。
「誰にも言いません。 母以外は。 約束します」
「ありがとう!」
 晴佳は思わず涙ぐみそうになった。


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