驚きと、それから明らかに喜びの渦に巻きこまれて足元がおぼつかない宏章を、晴佳は車で家まで送っていこうとした。
苦い笑いを浮かべて、宏章は断った。
「結構です。 いや、あなたがとても運転がうまいということは、ユラさんから聞いて知ってます。 でもやはり今日は」
「そうですね」
複雑な気持ちで、晴佳はうなずいた。
薄暗い裏庭から道に出て、ひとりになったとき、宏章が真っ先にしたのは、千葉に住む母に電話することだった。
長く続く病院の塀に背中をつけて、宏章は番号を押し、器械を耳につけた。 ベルが遠くで鳴っている。 三、四…… 数えているうちに、胸がどんどん迫ってきて、母の亜沙子〔あさこ〕が出たときには熱いものが二筋も頬を伝い落ちていた。
「あ、母さん? 僕」
「ヒロちゃん? 元気? 無理しないようにね。 あなたまでどうかなっちゃったら私……」
おろおろした呼びかけを遮るように、宏章は涙まじりの声を出した。
「今、座ってる?」
妙な問いかけに、電話が一瞬沈黙した。
「立ってるわよ。 なぜ?」
「驚いて倒れたら困るから」
「なに」
声が用心深くなった。 どうやら最悪の事態を考えていると悟って、あわてて宏章は核心に入った。
「あのね、ほんと驚かないでね。 兄さん、生きてるんだ」
今度の間合いは長かった。 一分以上黙っていてから、亜沙子は枯れた咳をした。
「本当?」
「うん」
「じゃ、電話に出して!」
あ…… こう反応するとは思わなかった。 たじろぎながらも、宏章は長い母の苦しみを思った。 生きていると不意に聞かされても、声を確かめなければ信じられない。 母はそこまで悩んでいたのだ。
「今は寝てるんだ。 交通事故に遭って、ずっと寝たきりなんだよ。 でも奇跡的に意識が戻って」
「どこ?」
もう叫びに近かった。 やむを得ず、宏章は教えた。
「元宮総合クリニック。 ○○区にある病院」
「すぐ行く。 支度してすぐ」
「待ってよ! 迎えに行くから」
「こっちから行ったほうが早い」
「じゃ、榊の駅で待ってる」
「そうして」
「あ、それから」
宏章はあやうく母が電話を切る前に言葉を挟んだ。
「また誰にも知らせないで。 容態がはっきりするまでは」
「うん。 わかった」
携帯を畳みながら、宏章は不安になった。 兄は本当に回復するのだろうか。 母を案内していって、会わせてくれるのか。
もう心配しても遅かった。 きっといい方にすべてが進んでいくと、そう信じる他はなかった。
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