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あおのロンド 59


 その夜は奇妙な天気だった。 台風でもないのにねずみ色の雲が上空に詰め寄せ、ひしめきながら強い渦を起こしていた。
 時折舞う突風にA3の封筒をを飛ばされないように手で胸に抱いて、晴佳はあわただしく車を降りた。 特別病棟に行くときには必ず、裏手にある第ニ駐車場に停めることにしていた。
 せかせかと歩いて廊下に入ると、遠くから笑いさざめく声が響いてきて、晴佳は一瞬立ち止まった。
「……筋肉ってすごい速さでつくものねえ。 二倍ぐらいになってる。 ほら、これがここに来たときので」
「寄りかからないでも座ってられるようになったしね」
 入っていくのがはばかられるほど家庭的な雰囲気だった。 最初の声は堀田夫人で後のは宏章、とすぐわかるほど、晴佳は毎晩ここに通って食事やリハビリの手伝いを続けていた。
 その誠意が堀田一族には充分伝わったらしい。 告訴とか刑事事件にするとかいった物騒な話は、どこからも出てきていなかった。 示談交渉にはまだ入っていないにしても、なんとか穏便にまとめられそうな兆しはあった。 晴佳は一人うなずき、胸にかかえた封筒をもう一度開いて確認した。 中には数枚の書類に写真が添付してあるのがちらっと見えた。
 ただ、問題は石垣だった。 彼にはまだ何も知らせていない。 すべて丸く収まってから事情を説明しようと、兄と決めていた。
 その陰には、もう石垣に振り回されたくないという兄妹の密かな願いが隠れていた。 石垣はいわゆる『やり手』で、自信家でもあり、何でも仕切りたがった。 だが、今度の件では明らかに判断ミスをしていた。

 晴佳はためらい、決断した。 病室には入らず、そばの控え室で石垣が来るのを待とう。 彼に割り込んでこられたら、まとまるものもまとまらないという、嫌な予感がした。
 半時間後、表の駐車場でザッという停車音が聞こえた。 すぐに立ち上がった晴佳は出入り口に急いだ。
 思ったとおり、それは石垣のスポーツカーだった。 険しい顔をして車から降りた石垣は、ドアを開けた晴佳を目にするとすぐに大股で歩み寄り、廊下に押し入れて後ろ手にドアを閉めた。
「なんだい。 入れたくなさそうだな。 こっちじゃないかと思って回ってきたら、やっぱりそうか」
 大きな声が空気を揺るがすので、晴佳は困った。
「静かに。 ここは病棟よ」
「こそこそするからだよ」
 ますます石垣は苛立った。
「あの患者に、ええと杉下だっけ堀田だっけ、何かあったのか?」
「話があるの。 ちょっとこっち来て」
「嫌だ」
 晴佳は唇を噛んだ。 お坊ちゃん育ちの石垣は、天邪鬼になると手がつけられない。 ずんずんと廊下を進み始めたので、晴佳はやむを得ず前に立ちふさがった。
「なんだよ!」
「話があるって言ったでしょう? 聞いて!」
 視線と視線がぶつかった。 意志の強さなら晴佳の勝ちだ。 石垣の目が逸れた。
「なに」
「患者さんの意識が戻ったの」
 そのとき石垣の顔をかすめたのは、驚きというより奇妙な満足の表情だった。


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