顎に垂れてきた血を拭いながら、石垣は歪んだ表情で殴った男を見上げた。
「おまえなあ」
「出てけよ!」
肩を大きく震わせながら怒鳴ったのは、晴佳の兄だった。 これまで石垣に逆らったことのない、おとなしい優等生の元宮佑磨だったのだ。
「陰に回って汚い真似しやがって、もう二度と来るな!」
壁に寄りかかって立ち上がろうとしながら、石垣は負けずに威嚇した。
「こそこそやってたのはお前らのほうじゃないか! 交通事故を黙ってた件で訴えてやるぞ!」
佑磨の口がねじまがった。
「それが本性か。 はっきり言わずにずっと晴佳に圧力かけてたんだな。 結婚しなきゃ警察に言ってやる、兄貴と病院に泥塗ってやるって」
「ふざけんな。 後ろ暗いのはそっちだろうが」
別の足音が近づいてきた。 そして、静かで冷ややかな声が響いた。
「僕たちは訴えませんよ。 あなたが事件にしようとしても無駄ですから」
石垣は血走った目を動かして、後から合流した美貌の青年をじっと眺めた。
「誰だ?」
「堀田久典の弟です」
言葉遣いは丁寧だが、話し方はそっけなかった。
「兄の久典は死のうとしたんです。 飛び込みは交通事故じゃない。 犯罪は成立しません」
誰かの溜め息が聞こえた。 かすかな安堵の吐息だった。
石垣がとっさに答えられないでいるうちに、宏章の視線は美知香に向いた。 美知香はひるんだが、虚勢を張って睨み返した。
宏章の声は更に冷たさを増した。
「北さん歩けるんだ。 松葉杖なんか飾りだったんだね」
「あのときは足が動かなかったのよ」
やけになったように、美知香は怒鳴り返した。
「ほんとなんだから!」
そうだったかもしれない、と晴佳はふと思った。 ショックでヒステリー現象が起き、一時的に筋肉が動かなくなる症状を、何度か見てきた。 ヒステリーとは泣き喚きと誤解されているが、実際は身体が硬直して意のままにならなくなることで、パニックになったときに起きやすい。
美知香はその現象を逆手に取って、久典をがんじがらめにした。 石垣も事故を利用して晴佳を手に入れようとした。 ふたりとも自分の夢を追うのに夢中で、手段を選ばなかった……。
床から立とうとした晴佳に、宏章が手を貸した。 感謝をこめて小さく頭を下げてから、晴佳はそっぽを向いている石垣に向き直った。
「今夜は帰って。 日を改めて話し合いましょう」
「勝手だよ」
「事情が変わったのよ」
「だから勝手だって言ってるんだ!」
語尾が濁った。 石垣は荒っぽく体を回してドアから出ていった。 置いていかれそうになった美知香が慌てて後を追った。
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