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あおのロンド 62


 廊下の端から若い娘の頭が覗いていた。 怯えた表情だ。 宏章はすぐ引き返して慰めた。
「大丈夫。 美知香さんは帰ったから」
 娘はうつむいた。
「ずっと気が咎めてた。 私だけ来ちゃっていいんだろうかって」
 宏章は苦笑いした。
「君はいい人だ。 美知香さんに爪の垢煎じて飲ませてやりたいよ」
「明子〔あきこ〕ちゃん」
 だいぶ力強くなった久典の呼び声がした。 明子と呼ばれた小柄な娘は振り返り、急いで病室に戻っていった。

 久典は窓の前に立っていた。 角度が違うから駐車場は見えないが、気配と、わずかに伝わってくる怒鳴り声で、事情を察したらしかった。
 いくらか青ざめた表情で、久典は弟の視線を探した。
「美知香……?」
 宏章はうなずいた。
「それと晴佳さんの婚約者。 どうも兄さんの事故をいいことに彼女を脅していたらしい」
 久典は顔をくしゃくしゃにした。
「俺のせいでいろんな人が……」
「やめやめ! それより祝おう」
「何を?」
 久典はきょとんとした。 それを見て宏章はいたずらそうに笑った。
「鬼嫁から逃れられた記念日。 兄さん、おめでとう。 もう美知香さんと泣く泣く一緒にならなくてもいいよ。 これからは堂々と明子さんと付き合える」


 廊下でも似たような情景が繰り広げられていた。 ぎこちなく向かい合った佑磨と晴佳は、たぶん初めてといっていい、心を割ったまじめな話を交わしていた。
「俺、現実を見てなかった。 というより、どこかでわざと目をそらしてたのかもな」
「それは私も同じだ。 生まれて育ったこの病院がすごく好きだから、傷をつけたくなかったの。 ごまかして、覆い隠すことだけ考えてた。 久典さんが意識を戻さなかったら、と考えるとぞっとする」
「婚約……やめるか?」
「うん」
 きっぱりと答えたとたん、胸の曇りがぱっと晴れた。 夜なのに目の前が明るくなった。
「石垣さんは断る。 婚約不履行で訴えられるかもしれないけど」
「やりそうだな。 でも俺もバックアップするよ」
 これまでどっちかというとしっかりした妹を敬遠ぎみだった佑磨の口から出た、初めての支援の言葉に、晴佳はこそばゆくなった。


 駐車場に行くと、緑の車体が凹んで、斜めに傷がついていた。 あの二人がやったのだろうと思うと、むしろ気持ちがせいせいした。
「車に当り散らすようなケチな男なんだ。 ごめんね、わが愛車」
 扉をなでなでして乗り、運転席に座った晴佳は、しかし、すぐ車を出そうとはしなかった。 胸に手を突っ込んでかき回されたように、考えがごちゃごちゃになっていて整理がつかない。 あちこちからとりとめのない記憶が噴き出してきた。
 そのうち、ひとつの顔だけが心を占領するようになった。 慌てて現実問題に意識を戻そうとするのだが、いくら振り払おうとしても面影は去らない。 終いに晴佳はステアリングの上に突っ伏してしまった。


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