搭乗を促すアナウンスが聞こえて、田坂は我に返った。
「じゃ、俺行くわ」
「ああ」
男同士では別れを惜しむ会話もなく、田坂はあっさり機内持ち込みのバッグを下げて歩き出した。
そのとき、顔の右半分が熱くなった気がした。 気配というのか、何かのエネルギーがロビーのざわめきを突き抜けて田坂の肌に南風のように触れた。
熱を感じた方向に、視線が動いた。 すると、壁の横に晴佳が立っていた。
グレーの地味なパンツ姿で、髪は無造作にポニーテイルにしている。 化粧も薄く、仕事中に抜け出してきたといった身なりだった。
庶民的に見えた。 自転車に乗ってのんびりと走っていそうな、普通の若い女に。
予想もしなかったことに、いきなり田坂の胸が迫ってきた。 どっと視野がかすんだので、焦った田坂は急いで顔をそむけ、大股で歩き出した。 こんなところで会いたくなかった。 尻尾を巻いて逃げる自分を目撃されたくなんか……
走ってくる足音が聞こえた。 振り向かないのに、なぜか晴佳だとわかった。 いや、違うかもしれない。 そうだといいと勝手に念じているだけで。
短く切れた声が近づいてきた。
「怒って……るのね。 そうなら……ちょっとは……見込みが……ある?」
見込み? 田坂の足が止まりかけた。 すかさず、晴佳はぜいぜい言いながら横をすり抜けて前に立った。
「足速い! この靴……どうも走りにくくて」
「何が言いたい」
ぶっきらぼうに問い返されても、晴佳はひるまなかった。
「私の態度悪かった。 でも、まだチャンスがあったら掴みたいの。 できるところからやり直したい」
「なんだ、それ」
再び歩き出した田坂の横を、晴佳は懸命に並んで歩いた。
「百パーセントやり直すのは無理でも、五十パーセントぐらいなら戻せる。 そう思わない?」
「思わない」
来たときと同じく唐突に、晴佳は立ち止まって一人遅れた。 急に冷ややかになった声が、田坂の耳にぶつかった。
「わかった。 百パーセント駄目ってことね。 じゃ、これで終りにする」
まただ――田坂の心で悲鳴に近い叫びが揺れた。 また晴佳は彼を振り回しに来た。 そして、気持ちの準備がまったくできていない段階で、独り決めして帰ろうとしている。
俺にだって言わせろ!――一ヶ月近い苦悩の日々をどう消化していいかわからず、田坂は大混乱に陥っていた。
だが、感情は収まらなくても体は正直に反応した。 足が錘をつけたように重くなり、前に進まなくなった。
勇気を振り絞って振り向いたが、もう晴佳はいなかった。 あわてて広いロビーを見渡しても、発見できない。 田坂は打ちのめされた。
携帯のコールが鈍く響いた。 条件反射的にのろのろと、田坂は電話を取り出して耳に当てた。
「はい……」
くぐもった市郎の声が聞こえた。
「アドリブのきかない奴だな、相変わらず」
「え?」
市郎は叱りつけるように言った。
「晴佳さんは北の出口にいる。 さっさと来い」
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