表紙
表紙目次文頭前頁次頁

あおのロンド 64


 搭乗を促すアナウンスが聞こえて、田坂は我に返った。
「じゃ、俺行くわ」
「ああ」
 男同士では別れを惜しむ会話もなく、田坂はあっさり機内持ち込みのバッグを下げて歩き出した。
 そのとき、顔の右半分が熱くなった気がした。 気配というのか、何かのエネルギーがロビーのざわめきを突き抜けて田坂の肌に南風のように触れた。
 熱を感じた方向に、視線が動いた。 すると、壁の横に晴佳が立っていた。
 グレーの地味なパンツ姿で、髪は無造作にポニーテイルにしている。 化粧も薄く、仕事中に抜け出してきたといった身なりだった。
 庶民的に見えた。 自転車に乗ってのんびりと走っていそうな、普通の若い女に。
 予想もしなかったことに、いきなり田坂の胸が迫ってきた。 どっと視野がかすんだので、焦った田坂は急いで顔をそむけ、大股で歩き出した。 こんなところで会いたくなかった。 尻尾を巻いて逃げる自分を目撃されたくなんか……
 走ってくる足音が聞こえた。 振り向かないのに、なぜか晴佳だとわかった。 いや、違うかもしれない。 そうだといいと勝手に念じているだけで。
 短く切れた声が近づいてきた。
「怒って……るのね。 そうなら……ちょっとは……見込みが……ある?」
 見込み? 田坂の足が止まりかけた。 すかさず、晴佳はぜいぜい言いながら横をすり抜けて前に立った。
「足速い! この靴……どうも走りにくくて」
「何が言いたい」
 ぶっきらぼうに問い返されても、晴佳はひるまなかった。
「私の態度悪かった。 でも、まだチャンスがあったら掴みたいの。 できるところからやり直したい」
「なんだ、それ」
 再び歩き出した田坂の横を、晴佳は懸命に並んで歩いた。
「百パーセントやり直すのは無理でも、五十パーセントぐらいなら戻せる。 そう思わない?」
「思わない」
 来たときと同じく唐突に、晴佳は立ち止まって一人遅れた。 急に冷ややかになった声が、田坂の耳にぶつかった。
「わかった。 百パーセント駄目ってことね。 じゃ、これで終りにする」

 まただ――田坂の心で悲鳴に近い叫びが揺れた。 また晴佳は彼を振り回しに来た。 そして、気持ちの準備がまったくできていない段階で、独り決めして帰ろうとしている。
 俺にだって言わせろ!――一ヶ月近い苦悩の日々をどう消化していいかわからず、田坂は大混乱に陥っていた。

 だが、感情は収まらなくても体は正直に反応した。 足が錘をつけたように重くなり、前に進まなくなった。
 勇気を振り絞って振り向いたが、もう晴佳はいなかった。 あわてて広いロビーを見渡しても、発見できない。 田坂は打ちのめされた。
 携帯のコールが鈍く響いた。 条件反射的にのろのろと、田坂は電話を取り出して耳に当てた。
「はい……」
 くぐもった市郎の声が聞こえた。
「アドリブのきかない奴だな、相変わらず」
「え?」
 市郎は叱りつけるように言った。
「晴佳さんは北の出口にいる。 さっさと来い」


表紙 目次前頁次頁
Copyright © jiris.All Rights Reserved