しゃれた案内標識を何度も確かめながら、田坂はひたすら歩いた。 広い。 確かに敷地面積が大きいのだが、ここがこんなに果てしなく思えたのは初めてだった。
それでもいつかはたどり着く。 きらめくガラスの傍に、市郎が立って手を上げているのが見えた。
晴佳の姿は、すぐには目に入らなかった。 やっぱり帰ったんだ――田坂は絶望にふらつくのを感じた。
だが、市郎が横に体を動かすと、その後ろに晴佳がいるのがわかった。 田坂のほうを向いてはいない。 無表情な横顔を見せて、乾いた道路を眺めていた。
皮肉な表情で、市郎はさっさと歩き出し、田坂とすれ違った。 耳元に低い声が残った。
「チャンスの女神は前髪だけだぞ。 俺が掴んどいてやったんだ。 一生恩に着ろよ」
「……」
言葉に詰まっている田坂を見て、市郎は笑い、遠ざかっていった。
田坂は歩幅を緩め、そっと晴佳に並んで立った。 外に視線を据えたまま、晴佳はぷつっと断ち切るような調子で言った。
「私はあなたを混乱させるんだって」
他に答えようがなくて、田坂は認めてしまった。
「うん」
晴佳はもぞもぞと体を動かした。
「あなたは弁護士なのに裏表がないから、駆け引きしないほうがいいって」
「仕事ではするけど」
どうも喉の調子がおかしいようだ、と田坂は思った。
「私生活ではストレートだから」
「ストレートだって」
不意に晴佳が低く笑った。 その言葉の別の意味〔←ゲイではない〕を思い出して、田坂も思わず頬をゆるめた。
まだ前を頑固に向いたまま、晴佳は続けた。
「私だってストレートよ。 初めからあなたを追いかけてた。 誘ったのは全部私から」
「でも誘い方が」
「あれしかできなかったの」
とたんに晴佳は、幼女のように頬をふくらませて言い返してきた。
「婚約してたんだもの」
「だからそれが」
「やっと断った!」
いかにもせいせいした口調だったので、田坂は毒気を抜かれた。
「断った?」
「うん」
言葉だけでは足りず、大きく縦に首を振って、ようやく晴佳はちらっと田坂の方をすかし見た。
「まだ怒ってる?」
なんと言ったらいいか…… この人には叶わない、と思ったのが運のつきだった。 素早く田坂の表情を読み取った晴佳は、とたんにわっと両手を伸ばして彼の右腕をすくい取った。
「もう飛行機間に合わないわよ」
「うん……」
「荷物持っていかれる」
「だな」
「手続しに行こう。 明日か、あさっての飛行機にして」
田坂はほっと溜め息をついた。
「行く気がなくなるかもな」
とたんに晴佳の口が下がった。 そして波のように震え出し、かすかな嗚咽が漏れてきた。
びっくりして、田坂は体を斜めに倒し、晴佳の顔を覗きこもうとした。
その胸に、ボフッと音を立てて晴佳が抱きつき、頭をこすりつけてきた。 泣きじゃくる晴佳を両手で抱えて、田坂は胸にあいた虚ろな穴がゆっくりと消えていくのをしみじみと味わっていた。
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