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あおのロンド 66


 田坂と晴佳の姿が空港から消えて一時間後、『ゆりかもめ』の駅に降り立った宏章が、バッグひとつ抱えて建物に入ってきた。
 カウンターで手続を終えた後、電光掲示板に目を走らせて、それから時計を見た。
「後四十分か、予定通りなら」
 なんとなく行きたくなかった。 さっきかかってきた電話も嫌な後味を残していた。
 それは、美知香からの電話だった。
「終わったわけじゃないのよ。 婚約不履行で訴えることだってできるんだから」
「兄はまだ治ってない。 五十メートルぐらいしか歩けないし。 だからしばらくそっとしておいてやってくれ。 話は僕が帰ってきてからゆっくり聞くから」
「帰る? どこか行くの?」
「ああ、チェコに戻るんだ。 契約があるんで」
「そう」
 それから美知香は笑った。 妙なふくみ笑いで、電話は切れた。

 心配だったが、契約は契約だ。 マネージャーから矢の催促で、すぐ来なければ劇場から訴えられるとまで言われて、行かないわけにはいかなかった。 長期休暇は一ヶ月の約束だったからだ。
長い脚を折り曲げて椅子に座り、磨きあげられた床を見ていると、不意に衝動が襲ってきた。 ある人の声を聞きたいという、強い望みが。
 幸い、電話はオフになっていなかった。 だが、耳に当てた受話器からは、奇妙な音が聞こえてきた。 カニが泡を吹いているような、ブクブクという高い音だ。 まだ夕方の五時前だが、もう酒を……? 宏章の頬に小さく笑窪が浮かんだ。
「もしもし?」
「あーたん?」
 とっさに理解できなかった宏章に、すぐ次の声が襲いかかるように響いた。
「あれ、堀田くん?」
 それから電話を押さえてたしなめている。 最初の声はやはり別人だったらしい。
 すぐにユラは電話口に戻った。 どこか慌てている雰囲気があった。
「ちょっと手違い。 気にしないでね。 それで? 何の用?」
 どこかそっけなかった。 このところずっとこんな調子だ。 飲みに誘われることもめっきり少なくなって、宏章は寂しい思いをしていた。
「ええと、お久しぶりです」
「そんな挨拶いいから。 本題に入って」
 ユラは忙しい。 そのことに気付いて、宏章は早口になった。
「二週間ほど留守にします。 そのことを知らせに」
「ふうん。 どこに行くの?」
「ヨーロッパです。 あの、晴佳さんから聞きました?」
 声がしばらく途切れた。
「何を?」
「あ、まだですか」
 ユラは苛立ち始めた。
「思わせぶりなこと言ってないで、自分の口からどうぞ。 話って何?」
「長いんです。 こみいってるし」
「じゃ無理しなくていい。 変に仄めかされるの大嫌い。 じゃね」
 切られそうだ。 あせった宏章は、まったく言うつもりのなかった言葉を口走ってしまった。
「待って。 それは後でゆっくり話します。 僕の言いたいのは、つまり、なんで最近会ってくれないのかなってことで」
 電話の向こうは息を潜めた。


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