つい本心を仄めかしてしまったので、宏章は腹が座った。 相手は日本のポピュラー界の大物で、当然プライドも高いだろう。 年下の宏章は、これまで弟並みの扱いしか受けてこなかったが、もっと親しくなりたいという気持ちは初めからあった。
一度に二つのことはできない。 宏章はまず兄を探し当てた。 次は自分の夢に近づく番だった。 もしも望みがあるならばだが。
やがてユラが声を出したが、微妙に先ほどまでとは違っていた。 いくらか用心深くなり、そして、女らしくなった。
「まあ、いろいろ考えててね」
「僕も」
なぜか息切れしそうになった。 走ってきたわけでもないのに。
「あの、一つだけ言います。 僕は本職のピアニストなんです。 事情があって隠してたんですが、一応ピアノで食っていけます」
「そうなんだ」
予想していた、という雰囲気で、ユラは低く相槌を打った。 水に潜ったように呼吸が難しくなった宏章は、突然やけになって口走った。
「あの……遠距離恋愛してくれませんか?」
言った後で、舌がぎゅっと縮まった。 まずい、と心底思った。 こんな電話なんかで頼んでいいことだろうか! 俺ってとんでもないバカかもしれない、と、宏章は自分の頭を殴りたくなった。
電話から、ぽつりと答えが返ってきた。
「いいよ」
え…… 宏章は背筋を伸ばした。 やがてじわじわと、次いで爆発したように胸が燃え出した。
「えーっ?」
「驚くな」
ユラはたしなめた。
「後悔するかもしれない。 いや、きっと後悔すると思うよ。 それでもいいなら」
「するわけないでしょう!」
声が轟いているのに気付かなかった。 何がなんだかわからないうちに、宏章は受話器に音を立ててキスしていた。
通りすがりの中年男が、いかにも嫌そうに横目でにらんでいった。 それほどキザっぽく見えたのだろう。 だが、外国暮らしの長い宏章にとってはごく自然な反応だった。
胸に片手を当てて、宏章はあえいだ。
「飛行機、遅らせます。 今から行っていいですか?」
「あれ? ええと」
「お宅ですよね。 子供の声が聞こえてたから」
ユラは絶句した。
「う…… もしかして、晴佳が話した?」
「いや」
驚いて、見えないのに宏章は強く首を振った。
「そこまで親しくないですよ。 お子さんなんですか? それとも姪か甥とか」
「私の子なら、どうする?」
「そうですか。 名前は?」
矢継ぎ早に訊かれて、ユラは守り一辺倒に追い込まれた。
「あのさ」
「はい?」
フーッと息をつき、笑い出す声が聞こえた。
「舞。 マーイ。 わかった? あなたってどこまでも普通の男の子じゃないわね。
いいわ、すぐ来て。 住所は……」
宏章は電話を肩で挟んで、大急ぎで走り書きすると、飛ぶように空港を出ていった。
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